この間、SOHOアートギャラリーに行った時、
キース・へリングのインタビューのビデオが流れていた。
セリオ(オーナー)と、それを眺めていて思い出した。

(youtubeは、たまたま見つけた、バルセロナでのペインティング)


17,8の頃、高校三年生だった私は、美術手帳ぐらいでしか入ってこない、現代美術の世界に、
夢と希望を抱いていた。楽しかったねぇ。

1985年。
キースへリングが大流行。
私も、よく、キースの真似をして描いた。
Tシャツまで作って、クラスの球技大会のユニホームにまでした。
キースを描けば描くほど、そして、彼が初期に扱った主題について知れば知るほど、
面白かった。
当時は、受験で、きちんとデッサンの勉強もしていたし、
かなり「模写」できたと思う。
(キースを模写してもねぇ。。。)
これはこれで、勉強になった。

誰にでも描けそうな均一な幅のストロークだけれど、
カーブを描くタイミングだとか、
肘やひざの角度など、
パターンがあって、そのパターンは、
何も人体にこだわることなく多用されている。
つまり、キースにとって、
人体は「シンボル」
ストロークは「サイン」。
サインはシンボルを空洞化できることを証明したのである。
シンボルが空洞になれば、
メタファー(暗喩)からの呪縛から離れられる。

一見、古典的な旧約聖書の主題を扱うようにみせて、
実は、キースにとっては、ありふれた日常に過ぎない。
もっと他の、別のことを言いたかっただけなのだ。

ニュートラルに描かれるシンボル。
誰もがイメージできる「何か」でありながら、
アートは誰にでもイメージできるコミュニケーションとしながら、
彼はイメージの空洞化を模索していたと、高校時代に思った。
まぁ、勿論、現代美術の問題点はそれだけじゃない。
混沌としていた。
今もそうなのかな?
いや、いつだってそうなんだろう。

だから、たまに思い出しては、じゃぁ、どうしていこうかと、考える。

いつだって、ありふれて、誰も今更手を付けないようなことに、
きっとヒントがある。
だって、そこからしか、見つけられないもの。
今更そんなことって、いうような事にね。

だから、久しぶりにキースのインタビューを観れて、よかったなって思った。