映画「糸」には、二つの「糸」の物語が存在している。メインとして描かれているのは、漣(菅田将暉)と葵(小松菜奈)の「糸」の物語だが、もうひとつ、漣と香(榮倉奈々)の「糸」の物語が存在している。

 むしろ、漣と香の「糸」の物語が、中島みゆきが詩で描いている「糸」の世界に近いような気がする。

 

 

 漣と香が出逢い漣の縦と糸と、香の横で織りなした布は家庭を築き、結という子供を授かり家庭を作った。

 しかし、漣と香と結の「糸」の物語はなおざりにされた。

 中島みゆきが「糸」で描こうとした世界観は、漣と香、そして結の「糸」の物語に近いものがあると私は感じた。

 中島みゆきは映画「糸」が企画されるにあたり、こんなコメントを残している。

 「様々な方がこの曲 (糸) を唄うのを耳にするたびに、様々な色に彩られることに驚きを感じている。今回の映像化により、あらたな『糸』の姿を見られることを心待ちにしている」と語っているように、「糸」に対する世界観は十人十色。私にも「糸」の世界観を語る権利はある。

 

 漣と葵の「糸」が映画のメインとなっているが、漣と香の「糸」の物語が存在する。

 むしろ、、漣と香の「糸」の物語のほうが、中島みゆきが描く「糸」の世界観に近いようなきがする。

 

 同じ職場の先輩だった香と、ちょっとしたきっかけで付き合いはじめ、そして結婚。そして結という子供を授かるが、香はガンで亡くなり漣と結が残された。

 映画では、現実だけが淡々と描かれていた。

 

 中島みゆきの「糸」の歌詞には

 「織りなす布は いつか誰かを 暖めあうかもしれない」

 「織りなす布は いつか誰かの 傷をかばうかもしれない」とある。

 縦の糸と横の糸がめぐり合い、新しい布が織りなされる。それは家庭であり、家族といえる。

 

 

  ;漣と香の糸は切れてしまうが、二人が織りなした布は、結という新しい糸を誕生させた。

 「泣いている人や悲しんでいる人がいたら、抱きしめてあげなさい」、と香から教えられていた結は、美瑛の「子ども食堂」で泣きじゃくる葵に、母親からの教えを実践した。

 

 

 もつれ、切れかかっていた漣と葵の「糸」は、漣と香の子供、結によって再び繋がることになった。

 映画では、漣と葵の「糸」によって新しい布が織りなされるだろうし、漣、葵、結の3本の「糸」で織りなされるのは家族という布だ。

 中島みゆきが描こうとしている「糸」は、「縁」に近いものがあるように思う。

 「縁」という言葉は仏語に由縁する言葉で

・結果を生じる直接的な原因に対して、間接的な原因。原因を助成して結果を生じさせる条件や事情。

・そのようになるめぐりあわせ。

・関係を作るきっかけ。

・血縁的、家族的なつながり、親子・夫婦などの関係。

と解釈されている。

 

 漣と香の糸がめぐり合い、織りなされた布が結である.。

 亡くなった香が「泣いている人や悲しんでいる人がいたら、抱きしめてあげなさい」と結に教えていなければ、結と葵の「糸」は繋がることがなかっただろうし、むろん漣と葵の糸も結ばれることはなかった。

 結と葵には不思議な縁があり「糸」が結ばれ、さらに漣の「糸」にも繋がった。

 

 中島みゆきの「糸」の最後は、

 「逢うべき人に 出逢えることを 人は 仕合わせと呼びます」

 と終わらせている。

 「しあわせ」でもなく「幸せ」でもない。

 中島みゆきは、「仕合わせ」という言葉にこだわっている。

 

 「仕合わせ」とは

・運がよいこと、また、そのさま。幸福、幸運。

・めぐり合わせ。運命。

・運がよくなること。うまい具合にいくこと。

・物事のやり方。また、事の次第。

と解釈される。

 

 私は、「しあわせ」と「仕合わせ」の違いを自分なりに消化できたわけではないが、めぐり逢いには必ずしも良いめぐり逢いだけではなく、悪いめぐり逢いもある。

 漣と香の出会いは、香が亡くなることで不幸と思われるが、結という新しい「糸」を誕生させた。必ずしも不幸だったとはいえない。

 葵と結の「仕合わせ」な出会いがなければ、漣と葵のもつれ切れかかっていた「糸」が再び繋がった。

 最後の最後に漣と葵の「糸」で新しい布が織りなされるが、そこには結の「糸」も繋がり、三つの糸で新しい家庭、そして家族という布が織りなされるのである。

 

 中島みゆきが描こうとした「糸」は、必ずしも男女間の「糸」ではない。人生では、たくさんの人々との出会いがあり、それぞれの「糸」が繋がったり、あるいは切れたりする。

 映画「糸」では男と女の「赤い糸」がクローズアップされているが、たくさんの「糸」の中から、自分にとって本当に必要な「糸」を見つけることが本当の「仕合わせ」なのだろう。