来世も母娘になろうね。 | 「西の空は明るい」

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色んな事がありました。
1つずつ乗り越えて来ました。
安定した生活を送れていると思っていたら、体調不良が続いてます……(⑉・̆-・̆⑉)
この歳になると仕方が無い事だけど 何だかなぁ……
残りの人生、楽しく過ごしたい❀(*´▽`*)❀

おはようございます。

たねすきです😎




私は三人きょうだいの末っ子だ。

姉 兄 私

姉とは5学年4歳半離れている。
この姉には良く面倒をみてもらった。

兄とは2歳しか離れてないので、小さい頃は よく泣かされた。

母は働き者で遊び人の父と居ながら
私達を育てあげた。


あんな貧乏な中、少しずつお金も貯めていた。


先に父が長患いの果て、私と母が看取った。

1度も父の入院中の病院には来なかった兄夫婦、兄家族。

それでも『喪主』となり 大きな顔をしていた……。

金銭的には全て母が支払った。




父の入院中は母を連れて毎週様子を見に行っていた。

母は「たねすきと一緒に出かけるのが一番 楽しみや。」と言っていた。


当時は私も仕事をしていて、週に一度が2週間に一度、3週間に一度となってしまっていた。

最終的にはひと月に一度しか父の病院へは行けなくなっていた。


母は病院の帰りに近くの健康風呂?に行く事が何よりも楽しかった様だ。


マッサージをして、食事が済んだら
お芝居を観て……

泣いたり笑ったり……


ある日、お芝居の後の歌謡ショーの時、

中学生の劇団員が
『俵星玄蕃』を踊った。

槍を手にして、勇ましく舞っていた。


その曲は父の十八番。
酔うと必ず大声で歌っていた歌。

今でも覚えている。
『おお、蕎麦屋かぁ〜!』

母と2人で泣きながら踊りを観た。


脳内出血で右側が麻痺していた父は話す事も出来ない状態だった。

元気ならまだまだ 飲んで歌ったであろう歌と踊りが 堪らなかった……。

入院から7年で父は母と私だけに看取られて息を引き取った。




そして4年前、母は誰にも看取られず明け方ひっそりと息を引き取った。

兄夫婦と同居をしていたが、寝室は別なので仕方が無い……。


苦労して生きて来て、一人で旅立つ。

残された私は訳が分からなかった。


あんなに一緒に居たのに なんで一人の時に逝くかなぁ。

前日も変わりなく過ごしていたらしい。

孫とひ孫が来たのでお寿司をとって、一緒に食べた……と。


その夜「胸が痛い」と言ったが救急車は断ったと言う。


で、翌朝亡くなっていた。


誰も居ない部屋で1人で……


あまりの急な事で信じられ無かった。

だけど現実の事……。


お葬式の時

納棺する『色紙』に母に向けて一言、書いて下さい、と言われた。

言葉なんて無いよ……


だけど私は最後の言葉を書いた


『お母さん ありがとう。
来世も母娘になろうね。』


次も母の子供に生まれたい。