極楽浄土~仏教用語集

極楽浄土~仏教用語集

お経の全文と意味の要約を解説いたします。

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第20願を紹介します。

 

<極楽浄土を心に繋ぎとめ往生するための願い>

 

【訳】もし私が仏となり得たとして、十方世界の生きとし生けるものが、私の名前(阿弥陀佛)を聞いて、我が国(極楽浄土)を心に繋ぎとめるなら、すべての功徳が身につき、心が回向する。もし我が国に生まれたいという仏果が実らなければ、正しい覚りを得たとは言わない。

 

設我得佛 十方衆生 聞我名号 繋念我国 植衆徳本 至心回向 欲生我国 不果遂者 不取正覚
 

 

(1) 十方衆生: 四方八方に上下を加えた方角。ありとあらゆる世界の生きとし生けるもの。

 

(2) 名号: 名前。字。呼び名。


(3) 繋念: 心に念じてつなぎとめること。ただ一つのことを心に繋ぎとめ、他を考えないこと。心に留める。

 

(4) 徳本: 善根。万善万徳の根本。

 

(5) 植衆徳本: ありとあらゆる功徳と善を習得すること。


(6) 至心: 誠に至る心。誠の心。真実の心。


(7) 回向: 回は、ぐるっと回すこと。向は、方位を向けること。自分の習得した功徳を、別の箇所である「他」に振り向けること。

 

 (8) 果遂: 願いが叶う。結果が実る。結果が遂行される。

 


 

■ 解釈

 

〇 なぜこのような願いを建てたのか?

 

世自在王仏は刹那の間に、数々の国々、人々を法蔵菩薩に見せられました。

 

すると、佛のいる浄土の世界の美しさを聞いて、たどり着きたいと心に願っても、修行が足りず、その願いが身を結ばないことがあるのを知りました。

 

法蔵菩薩は、慈愛によって、そのような人々を哀れみました。

 

道半ばでついえた人であっても、私の名前を聞いて極楽浄土に生まれたいと願うなら、法蔵菩薩が阿弥陀仏になられた自力念仏の功徳の回向によって、すべての人々が救われるようにと願われました。

 

 

 

 

 

 

 

第19願を紹介します。

 

<来迎し引接するための願い>

 

【訳】もし私が仏となり得たとして、十方世界の生きとし生けるものが、菩提心を起こして諸々の功徳を修行し、誠の心より極楽浄土に生まれたいと発願するなら、この人が臨終のときに私と極楽浄土の大衆が現前し周りをとりかこまなければ、正しい覚りを得たとは言わない。

 

設我得佛 十方衆生 発菩提心 修諸功德 至心発願 欲生我国 臨寿終時 假令不与大衆 囲繞現其人前者 不取正覚
 

 

(1) 十方衆生: 四方八方に上下を加えた方角。ありとあらゆる世界の生きとし生けるもの。

 

(2) 発: 起こす。発生する。

 

(3) 菩提心: 覚りを求める心。清浄な心。

 

(4) 臨: まもなく。もうすぐ。

 

(5) 寿終: 寿命が終わる

 

(6) 假令: たとえ。もし。

 

(7) 大衆: 佛を信じる人々の呼称。

 

(8) 囲繞: 周りをとり囲む。

 

 

 

 

 

僕が今よりずっと若かった頃
人の助けなんて欲しくなかった

でも今や そんな自信は消え失せて

心の扉を開いてる

助けて

     「Help!」 The Beatles (和訳)

 

 

 

昔、人々は自力念仏を信じていた。

 

自力念仏とは、自分が念仏の功徳を積み重ねて、自分の力だけで目的を達成する。

 

しかし、自力だけでは心が折れた。

 

 

それに対して法然上人は、本願念仏を広めた。

 

本願念仏とは、阿弥陀仏の本願による(自力ではなく)他力を求めて、他力に乗じて目的を達成する。

 

そして、心は折れなくなった。

 

 

他力本願とは、一種の信仰である。

自力ではなく、他力を求めて頑張る。

他力を信じて。

それが他力本願の始まり。

 

 

 「自力」の非力さを知った経験。

 「他力」の強さを知った経験。

 

このような経験がある人は幸いである。

 

 

「今までひとりでやってきた」から「何でも自力でできる」

 

 

「自力」信仰を持つ人は、

他人のいる社会において、

思い通りにならないことがあると気づく日は、

遅かれ早かれ おとずれるのではないでしょうか。

 

 

万事が思い通りにならにと知って 「他力」との共生を歩むのか

万事が思い通りにならないと知っても 「自力」で我を通すのか

 

 

他力本願は、「他人」信仰とは違う。

なんでもかんでも「他人任せ」とは異なる。

 

 

 

他力本願は自力を否定しない。

 

他力を受けるために、自分を改善する。

 

そんな一面がある。

 

 

 

自分の人生は誰が決める。

 

たとえ自分の人生だったとしても、

 

他人の力がなければ できないことはいっぱいある。

 

自力とは他力へたどり着くための努力である。

 

 

 

他力本願による念仏とは、

阿弥陀仏の選択した本願(48願:主に第18願)を、信じて称える念仏のことである。

 

 

自力だけではたどり着けない場所(極楽浄土)に行ける。

 

 

 

阿弥陀如来という他力の本願を信じて、助けを求める。

「他力本願」の基礎である。

 

 

 

人は阿弥陀様との関係がよく結ばれると、他人との関係もよく結べるようになるらしい。

 

心の底から敬意をもって他人と接することができるようになり、

 

心の底から敬意をもって他人と接していると、

 

万が一 自分が困った時に助けを求めると助けてもらえるようになるらしい。

 

 

 

「自力」信仰の人は「他力」に気づかない。

 

感謝の心と謙虚な気持ちを忘れる。

 

それなのに

 

どうして他人とのよい関係が気づけるのでしょうか。

 

 

 

「他力本願」の人は、感謝の心と謙虚な気持ちを忘れない。

 

他力を信じて、相手を信頼する。

 

そう思って助けを求める。

 

 

 

心の扉を開いてる。

 

 

 

 

 

 

 

第18願を紹介します。

 

<極楽浄土に生まれるための願い>

 

【訳】もし私が仏となり得たとして、十方世界の生きとし生けるものが誠心、信心深い心、歓喜する心で、極楽浄土に生まれたいと願い、阿弥陀仏の名を声に出して十回念じてたのにもかかわらず、極楽浄土に生まれることができないなら、正しい覚りを得たとは言わない。唯一五逆の重罪と仏教の正しい法を誹謗中傷した人は除く。

 

設我得佛 十方衆生 至心信楽 欲生我国 乃至十念 若不生者 不取正覚 唯除五逆 誹謗正法

 

 

(1) 十方衆生:四方八方に上下を加えた方角。ありとあらゆる世界の生きとし生けるもの。

 

聖人、凡夫、善人、悪人の全てが含まれます。

 

誰一人として抜け落ちることがなく、阿弥陀仏の誓願によって救度されると約束されたのが私たち衆生です。

 

阿弥陀仏の発願は、衆生のために発せられ、その対象は私たちです。

 

私たち一人一人が阿弥陀仏の発せられた「十方衆生」の範囲の内に含まれます。

 

 

(2) 至心:至誠心。誠に至る心。極楽浄土に至る心。虚偽のない心。

 

 

(3) 信:信心。信心深い心。

 

 

(4) 楽(Sukha):幸福。喜び。楽しみ。歓喜。至福。順調。容易。

 

※ 語源はSuが良い、Khaが車輪の穴で、思い通りに進む。

 

 

(5) 乃至:つまり。中間を除く語で、主に二つの概念が含まれる。「少なくとも(at least)」と「~に至るまで(as far as)」の意味を兼ねそろえた概念。

 


(6) 念:声に出して読む。声を出して称える。ここでは、阿弥陀仏の名号を声に出して称えること。

 


(7) 十念:(仏教用語)「南無阿弥陀仏」という念仏を、十遍称えること。

 

 

(8) 唯:唯一。只。

 


(9) 除:除く。排除する。

 

 

(10) 五逆:五つの道理に逆らうもっともやってはいけない行為。罪悪行為。

 

無間地獄に落ちる悪業のため五無間業(むけんごう)とも言う。

 

具体的には、父を殺すこと。母を殺すこと。阿羅漢を殺すこと。仏の身を傷つけること。僧の和合を破ることの五つを指す。

 

親を殺すものは親に殺され、師を殺すものは徒弟に殺され、友を裏切るものは友に裏切られるなど、すべて負の連鎖を生じさせ、一生を終えても償いきれないほどの悪業を生む。

 

 

(11) 誹謗:根拠のない悪口を言うこと。他人を悪く言い、傷つけること。

 

 

(12) 正法:お釈迦様の説いた教え。佛様の教え。菩薩様の教え。

 

※ 誹謗正法したものは、決して仏に成ることができなくなるため、最も重い罪とされる。

 

 

 

■ 『観無量寿経疏』 善導

 

一切凡夫 不問罪福多少 時節久近 但能上尽百年 下至一日七日 一心専念弥陀名号 定得往生 必無疑也

 

一切の煩悩を持つ凡夫は、罪や福の多い少ないを問わず、時間の長い短いも問いません。ただし百年になろうが、一日から七日程度の時間であろうが、一心に専ら南無阿弥陀仏を念ずれば、往生が得られると定められています。必ず疑いを捨てなさい。

 

煩悩を持つ私たちは、

 

どちらかと言うと、善が多くて悪が少ないでしょうか。

 

それとも、悪が多くて善が少ないでしょうか。

 

阿弥陀如来は、その一切は問わないと仰いました。

 

 

仏教を学び念仏した時間は、

 

生まれてこの方という一生なのしょうか。

 

それとも二、三年でしょうか。

 

はたまた数日前、数時間前でしょうか。

 

阿弥陀如来は、その一切も問わないと仰いました。

 

 

大事なことは、その人が心を一つに専ら「南無阿弥陀仏」を念じられるかどうかということです。

 

決して疑わなければ(これが煩悩を持つ凡夫には難しいのですが)、往生(極楽浄土にて生まれること)は必定します。

 

 

 

■ 『般舟讃』 善導

 

利剣即是弥陀号 一声称念罪皆除 誹謗闡提行十悪 回心念佛罪皆除

 

(貪瞋痴の煩悩を断ち切る)利剣とは、即ち阿弥陀仏の名号である。ひと声念仏を称えれば、罪は皆除かれる。

 

誹謗は成仏できない機根となり、十悪を犯す。回心して念仏を称えれば、罪は皆除かれる。

 

 

 

■ 解釈

 

阿弥陀経に曰く、私たちは阿弥陀佛が既に成佛したと知っている。

 

それは阿弥陀佛の発願が全て成就したことを表している。

 

第18願では

 

〇 只、信じて,只、極楽浄土に往生したいと望んで、念仏すれば往生できる。

 

〇 只、南無阿弥陀仏と専ら称えることで、阿弥陀仏の救いが完成する。

 

阿弥陀仏の大願の船の中に座し、阿弥陀仏の光明を毎秒摂取する。

 

迷いの世界を離れ、心は喜び楽しみ続ける。

 

 

 

 

 

 

第17願を紹介します。

 

<御名を称えるための願い>

 

【訳】もし私が仏となり得たとして、十方世界の諸佛がすべて我が名を称賛しないのなら、正しい覚りを得たとは言わない。

 

設我得佛 十方世界諸佛 不悉咨嗟称我名者 不取正覚

 

(1) 咨嗟:声を出してほめたたえる。讃嘆する。讃美する。

 

(2) 称:称える。称賛する。

 

 

 

■ 解釈

 

阿弥陀経の後半部分には、諸佛が阿弥陀仏を称えている文章がある。

 

鳩摩羅什の訳した阿弥陀経では、六方と簡略されているが、玄奘の訳した阿弥陀経には十方諸佛となっているが、いずれにせよ、この因果の法則によって、第17願が成就したと見なされる。

 


〇 法藏菩薩が五劫の間ずっと思惟したときに、西方極楽世界が建ち上げて、生きとし生けるものを救済して解脱(救度)させる方法を考えました。

 

(その方法が第十八願になります。)

 

このことは、十方世界の全ての人に伝えただけでなく、きちんとその内容を理解できなければいけません。

 

もし十方の生きとし生けるものが、極楽世界を知らずに一生を終えたらどれだけ悲しいでしょうか。

 

もし阿弥陀仏が無条件で救度してくださることを知らずに一生を終えたらどれだけ悲しいでしょうか。

 

そのため阿弥陀仏は、西方極楽浄土を建立するだけでなく、生きとし生けるものを往生させる方法まで考えて、誓願を成就なされました。

 

 


〇 なぜ菩薩や声聞や縁覚ではなく、佛がその御名を称賛するという誓願を建てたのか。

 

これは阿弥陀佛の智慧が非常に深く、極楽浄土に関わるすべての事理と因果を理解するのには、佛の境地にまで至らなければならないからである。

 

菩薩や声聞や縁覚では、すべてを完全に理解することはできない。

 

完全に理解できていない状況で、極楽浄土の救度の法門(教え)を、自信をもって心の底から十方世界に広めるのには不足がある。

 

蕅益大師は「この経典は仏の境地にある。ただ佛のみがそれに通ずる。」と言及した。

 

浄土の事理と因果を完全に理解することのできる佛のみが、真の意味で、極楽浄土の荘厳さを称賛できる能力を有しているのである。

 

 

 

〇 阿弥陀経には諸佛が、舌を長く伸ばして阿弥陀仏を称賛したとあります。


この舌の形(舌相)が三千大千世界を覆うということは、信頼の度合いが不可思議な境地にまで達していることを表現しています。

 

小乗仏教の声聞の教理には、一人の人間が三世において一度も嘘をつかなければ、一つの身体的特徴(身相)を得ると言われています。

 

それが「舌を伸ばして鼻先につく」ことです。

 

もし一人の修行者が、三大阿僧祇劫において一度も嘘をつかなければ「舌を伸ばして顔全体を覆う」ことができるようになると言い伝えられています。

 

諸佛が極楽浄土を称賛するときに、広く長くなった舌相が顔全体を覆うだけでは収まらず、三千大千世界にまで及ぶと記されている。

 

つまりそれは、三大阿僧祇劫に収まらず、無量無辺の阿僧祇劫、不可思議兆載永劫に至るまで、一言も虚言していないことを意味している。

 

このようにして初めて得られる広く大きな舌相を見た人は、多くを聞かなくても阿弥陀佛の功徳に嘘偽りがなく絶対的に真実であると、一目で分かるようになる。

 

 

※ 当時お釈迦さまが在世の時に、外道のバラモン教の教徒と論争することがありました。

 

その時、お釈迦さまが最後に舌を伸ばして顔全体を塞ぐと、バラモン教徒はその様相を見て「言い争うことはやめましょう。あなたが正しいです」と宣言した。

 

 

 

〇 十方諸佛が阿弥陀仏の御名(名号)を称賛するという第17願があるおかげで、私たちは一生涯において「南無阿弥陀仏」という言葉を何度も耳にするようになりました。

 

さらには「釈迦牟尼仏」を知らなくても、「阿弥陀仏」は知っているという人もいるほどです。

 

釈迦牟尼仏は娑婆世界の教主であり、阿弥陀仏は遥か遠くの十万憶佛刹の極楽浄土にいる教主です。

 

それなのに、なぜ阿弥陀仏を知っている人のほうが釈迦牟尼仏を知っている人より多いという現象が起きるのでしょうか?

 

その不思議な現象の由縁もまた、第17願があるからだと言えるのかもしれません。

 

私たちが阿弥陀仏の名号を聞くことができるようになったということは、諸佛の称賛に対して深く感謝しなければなりません。

 

 

■ 『無量寿経』四誓偈の「我至成仏道 名声超十方 究竟靡所聞 誓不成正覚」にも通じている。

 

 

 

悪が尽きることを「功」と言い、善が満ちることを「徳」と呼ぶ。

また「徳」は、「得」でもある。「功」を修めるところに「得(ご利益)」がある。

故に「功徳」なり。

 

 

悪尽曰功,善满称德。

又德者,得也。修功所得,故名功德也。

 

吉蔵 『勝鬘宝窟』


 

 

かくのごとく功徳というのは、言葉で表現するのは不可能である。

 

 

如是功德、不可稱説。

 

 

口には青蓮華のような香潔の香りがする。身体の毛穴からは白檀の香りが出る。その香りは無量の世界に薫る。見た目は端正で美しい。手のひらからは尽きることのない宝を出す。衣食は麗しく花の香りがし、住みかは荘厳さをそなえている。かくのごときこと、あらゆる人間界と天界のものを超えている。すべての道理において、自由自在となった。

 

 

口氣香潔 如優鉢羅華。 身諸毛孔 出栴檀香。 其香普熏 無量世界。 容色端正 相好殊妙。其手常出 無盡之寶。 衣服 飮食 珍妙華香 繒蓋 幢旛 莊嚴之具 如是等事 超諸天人 於一切法 而得自在。

 

康僧鎧 『無量寿経』

 

 

 

 

■ 功徳の関連語

 

・ 功德海: 海のように広く深く、計り知れないものである。

 

・ 功徳宝: 宝のように珍しく、貴重なものである。

 

・ 功德藏: 蔵のように蓄積されるものである。

 

・ 功德聚: 一つの場所に集結するものである。

 

・ 功徳林: 林のように複数からなり生い茂るものである。

 

・ 功德荘厳: 荘厳で美しいものである。

 

 

 

 

第16願を紹介します。

 

<不善をなす名を聞かなくなるための願い>

 

【訳】もし私が仏となり得たとして、国中にいる人と天が、好ましくない名前を聞くことがあるなら、正しい覚りを得たとは言えない。

 

設我得佛 国中人天 乃至聞有不善名者 不取正覚

 

(1) 不善名:不善な名前。不善な表現。ひいては、不善をなすそのもの。「悪」という名。「地獄」「餓鬼」「畜生」という「三悪道」の名。

 

 

■ 解釈

 

〇 なぜこのような願いを建てたのか?

 

世自在王仏は刹那の間に、数々の国々、人々を法蔵菩薩に見せられた。

 

すると、佛のいる浄土の世界にも、他人を差別したり、脅迫したり、侮辱する言葉やその名称が残っていた。

 

「不善」とはすなわち「悪」にまつわるものである。

 

具体的には外道や悪知識などを表し、その言葉の中核をなすものが、地獄・餓鬼・畜生の通称、三悪道と呼ばれる名称である。

 

お釈迦さまが覚者となり、六道輪廻から解脱した後も、世界から地獄・餓鬼・畜生という言葉はなくならなかったのと同じような状況である。

 

地獄・餓鬼・畜生を聞いて苦悩する人が多くいた。

 

法蔵菩薩は、第一願で地獄・餓鬼・畜生の三悪道をなくすことを誓願した。

 

そして第十六願では、その名称そのものさえ、完全に聞かなくなるようにと誓願した。

 

内に悪心、外に悪名のある衆生を哀れむだけでなく、その名を聞いて影響を受ける衆生にも慈悲の心が広がった。

 

これが大乗仏教や利他の精神の礎である。

 

 

 

■ 『大乗義章』  慧遠

 

当知一切善不善者 斯名佛性

 

〇 すべての善と不善を知ることを、佛性と呼ぶ。

 

 

諂 誑 及高 貪 慢 及疑 此之六種 在欲界者 斯名不善。

 

〇 諂、誑及び高。貪、慢及び疑。この六種は欲界で不善と呼ぶ。

 

諂・・・あやまちを隠す。過失を隠す。

 

誑・・・たぶらかす。功徳があると誑かす。功徳が実在しないと誑かす。

 

高・・・おごり高ぶる。自矜が高い。自分を他人より高い存在だと思う。思い上がる。

 

貪・・・むさぼる。むやみにほしがる。執着する。対象を追求する。貪愛。

 

慢・・・うぬぼれる。他人をあなどる。他人を見下す。慢心。自分の考えが正しいと思いこみ、他人の言うことを聞かない。

 

疑・・・信じない。疑う。

 

 

所謂不善及穢汚心 一切受生依煩悩故

 

〇 いわゆる不善及び穢汚心とは、全て煩悩の故に生じ、受けるものである。

 

 

■ 『悲華経』  曇無讖

 

無有一切不善之名世界清浄無有臭穢

 

〇 一切の不善をなす名が無くなると、世界は清浄になり穢れたものもなくなる。

 

 

■ 『法事讃』 善導

 

阿弥陀佛国真厳浄 三悪六道永無名

 

〇 阿弥陀仏の極楽浄土は真に厳正なる浄土で、三悪六道の名も永遠に無くなる。

 

 

 

 

第15願を紹介します。

 

<寿命を自由自在にするための願い>

 

【訳】もし私が仏となり得たとして、国(極楽浄土、極楽国)にいる人と天は、寿命の制限がなくなる。ただ、その者の本願により寿命の長短を自在にする場合を除く。もしそうならなければ、正しい覚りを得たとは言わない。

 

設我得佛 国中人天 寿命無能限量 除其本願 脩短自在 若不爾者 不取正覚

 

(1) 無能:できなくなる。不可能。

 

(2) 限量:量を制限する。限界を定める。制限する。

 

(3) 本願:根本の願い。仏という結果になるための動機である原因としての願い。

 

(4) 脩短:長短。

 

(5) 自在:自由。拘束されない。

 

(6) 爾:その通りである。

 

 

 

第14願を紹介します。

 

<声聞と縁覚が無数になるための願い>

 

【訳】もし私が仏となり得たとして、国中にいる声聞(しょうもん)が、少なくとも三千大千世界の声聞と縁覚(えんがく)の数を、百千劫の期間において、すべて計り知れてしまうなら、正しい覚りを得たとは言えない。

 

設我得佛 国中声聞 有能計量 下至三千大千世界 声聞縁覚 於百千劫 悉共計挍 知其数者 不取正覚

 

(1) 声聞(Sravaka):ブッダの声による教えを聞いて覚った者。小乗仏教(部派仏教/上座部仏教)における弟子。

 

(2) 計量:計量する。数を数える。

 

(3) 三千大千世界:仏教における一つの仏国土の単位。

 

■ 解釈

 

佛教の世界観では、一つの太陽と月が、須弥山(世界の中心にそびえたつ山)の東西南北にある四つの天下を照らし、一つの初禅天を覆う。それを「小世界」とする。

 

千の小世界は一つの二禅天を覆うため「小千世界」とする。

 

千の小千世界は一つの三禅天を覆うため「中千世界」となす。

 

千の中千世界は一つの四禅天を覆うため「大千世界」となす。

 

一つの大千世界には、「小千」「中千」「大千」の三つの千があるため、「三千大千世界」と呼ぶ。

 

三千大千世界が、一つの仏国土(浄土/浄仏国土)を表す。

 

そのため「大千世界」は、「三千大千世界」の略称であり、同じ意味である。

 

 

(4) 縁覚(Pratyeka-buddha):ブッダがこの世にいたときに、十二因縁の理を覚った者。声の教えを聞くことによらず、縁によって独りで覚った者。独覚(どっかく)や辟支仏(びゃくしぶつ)とも言う。小乗仏教(部派仏教/上座部仏教)における弟子。

 

(5) 計挍:はかり知る。

 

 

■ 二乗とは、声聞と縁覚の二つを合わせた呼び方です。

 

 

 

第13願を紹介します。

 

<寿命が永遠になるための願い>

 

【訳】もし私が仏となり得たとして、寿命に限界があり、少なくとも百千憶那由他の劫までしか達せないなら、正しい覚りを得たとは言えない。

 

設我得佛 寿命有限量 下至百千億那由他劫者 不取正覚

 

 

菩薩が願いを建てるときは具体的な目標値として、少なくともという下限を設定しているが、上限に関しては、まだ未知の境地で、はかり知れないため言述されない。

 

 

■ 参考

 

玄奘 『大唐西域記』 

 

玄奘が西域から経典を持ち帰る途中、烏刹国と呼ばれる国を通過した。

 

この国の王城から西に二百里あまり離れたところに大きな山が座していた。

 

言い伝えでは数百年前に、ここで山崩れが発生したときに、一人の僧侶がその山の洞窟で静かに座っていた。

 

この僧侶の身長は高く、普通の人の数倍はあった。身体は痩せこけており、顔は全て垂れ下がる髪と髭で覆われていた。

 

ある時、山で薪を集めていた男が見つけて、烏刹国の国王に報告すると、国王は興味を持ち自らお供を引き連れて会いに行った。

 

どこからかその噂を聞き付けた人たちも、少々恐る恐る駆けつけては供養をした。

 

一人の修行を重ねた僧侶が国王に「山窟にて座す方は、滅尽定(六識の心作用が滅びてなくなった精神統一の境地)に入った阿羅漢です。もしこの方を滅尽定から出したいのであれば、酥乳(牛乳で作られた保存食)を身体に注ぎ入れ滋養を与え、引磬(いんきん)を鳴らさねばならないでしょう。」

 

国王はこの僧侶が言うとおりして、引磬を鳴らすと、この阿羅漢は両目を開け、周囲の人々を見渡し尋ねた「あなた方は?あなた方は私の師匠である迦葉佛(かしょうぶつ)が、どちらにいるかご存知ですか?」


国王は阿羅漢に答えて「迦葉佛(かしょうぶつ)は、涅槃に入り久しいです。現在は釈迦如来でさえ既に入滅なされました。」

 

阿羅漢はそれを聞くと頭を下げ両目を閉じ一瞬の沈黙の後、髪の毛を持ち上げて飛び跳ねると、三昧の真火となり自身を焼き尽くし灰となった。

 

阿羅漢の身体が燃え尽きると、わずかに燃え残った骨が地上に落ちた。国王と大臣は骨を拾い集めて塔を建てた。

 

この阿羅漢が滅尽定に入ったのち、迦葉佛に会えなかったのは、迦葉佛の化身(けしん)の寿命が短かったからです。もし迦葉佛の寿命が無量であれば、このような状況にはならなかったことでしょう。

 

また、仏滅以後の末法の時代には、佛が正法を説かないので、邪師の説法が恒河沙のように増え、邪魔や外道が縦横無尽に邪法を説き、衆生は三毒の煩悩を患います。

 

 

その後、蕅益大師の時代になると、以下のように人々に伝承されるようになります。

 

我々が濁(泥のような意味)の中で、邪智がまとわりつき邪師が人々を惑わすようになったときのために、阿弥陀仏は「もしご自身が仏に成られたときは、寿命が無量無辺になり往生した者すべてと、会って共に暮らせるようになる」と発願されました。