こんにちは(^^♪

 

「海の武士道」のお話は知っていますか?

戦時中に敵兵を救った「工藤俊作」の物語です。

工藤艦長は何を成し遂げたのか?

それは、日本人の誰もが知らなかった、

世界の海軍史の中でも歴史に残る感動物語だったのです。ニコニコ

 

今回は、その物語をご紹介させていただきます。

 

*********************************************************

 

1941年12月8日に起こった大東亜戦争。

そんな戦争真っ只中の1942年、

実はインドネシアのスラバヤ沖という場所。

ここでは、日本軍の攻撃により、イギリスの軍艦である

「エンカウンター」が撃沈したのです。

 

船に乗っていた船員たちは、海中に放り出されます。

イギリス兵たちはボートや木材にしがみつき、

海を漂流することになりました。

 

その時、船から漏れた重油によって体が汚れ、

仲間の船が助ける気配もなく、

疲弊しきっていた隊員たちの中には、自殺を図る人も現れたという。

 

そんな最中、漂流すること21時間が経った時、

彼らの視線の先に巨大な軍艦が見えたのです。

彼らは、「やっと、救助が来たんだ!」と喜びました。

 

ところが、その船は敵国である日本の船である、

駆逐艦「雷(イカヅチ)」だったのです。

 

その船の船長は「工藤俊作」という男。

身長185㎝、体重90㎏の堂々たる体格であるが、

非常に温厚な性格であった。

あだ名は「大仏」。

 

海軍時代、江田島の海軍学校で鉄拳制裁を禁じた

「鈴木貫太郎」元首相のように、艦長であった時に、

船員に対して、鉄拳制裁は禁止した。

部下からの信頼も厚く、工藤が艦長だった戦艦は

いつもアットホームな雰囲気だったという。

 

イギリス兵たちは、日本船だと分かった時、

撃ち殺されるだろうと覚悟を決めました。

駆逐艦「雷」では、漂流者のイギリス兵と距離4千まで近づいたところで、

二番見張りと四番見張りから連絡が入る。

「浮遊物は漂流中の敵らしき」

「漂流者4百以上」

 

実際に漂流していたのは422名のイギリス兵だった。

彼らを殺すかどうかは、工藤艦長の判断次第。

このスラバヤ沖は、海戦の最中でもあるため、

救助をしている最中に連合国に攻撃される可能性が十分にある

危険な場所・・・

 

そして、工藤艦長は叫びました。

「敵兵を、救助する!」「取り舵いっぱい」

 

そして雷は救難信号の旗を揚げた。

ここから、世界の海軍史上でも極めて異例となる

救助劇が始まったのです。

 

イギリス海軍たちは、ボートや木材などにしがみついているものの、

船の重油などで衣服が汚れていた。

 

雷の乗組員たちは、先に自力であ上がれるものを上げ、

重傷者は後で救助しようと考えていた。

しかし、イギリス兵たちは先に重傷者を上げるように言ったのです。

重傷者を引き上げつつ、ロープを海中に投げて

イギリス兵たちに握ってもらう。

しかし、彼らは、相当疲弊しており、

ロープを握れないほどだった。

そのため、乗組員が竹竿を下ろし、

それに抱きつかせておこうとした。

 

しかし、竹竿に触れると、イギリス兵は安堵したのか、

力尽きて海の中に沈んでいった。

すると、この光景を見かねた船員たちは、

独断で海の中へと飛び込み、立ち泳ぎをしながら

イギリス兵たちを救ったのです。

 

ここまでくると、もう敵も味方もありません。

とにかく、雷の船員たちはあらゆるものを駆使して、

イギリス兵の救助を行います。

この救助劇は、イギリス兵の日本人に対する印象をガラリと変えました。

 

雷に引き上げられたイギリス兵たちは、

引き上げられたのはいいものの、まだ警戒心が完全にとけたわけではありません。

「もしかしたら、この後何かひどい目にあわされるのではないか」と。

 

しかし、工藤は彼らにこう言ったのである。

「諸君は勇敢に戦われた。

今や諸君は、日本海軍の名誉あるゲストである。

私は英国海軍を尊敬している。」

 

乗組員は、イギリス兵が重油で真っ黒になった体を、

木面の布とアルコールでふき取り、

また、シャツ、ズボン、運動靴、ミルクやビールなども支給した。

その後、終日、雷は海上に浮遊し続ける生存者を捜し続け、

たとえ遠方に一人でも人がいたら、船を近づけて停止させ救助した。

 

その後、イギリス兵たちはオランダ病院船である、

「オプテンノート号」に引き渡された。

 

これにより、世紀の救助劇は幕を閉じたのです。

その後、工藤は「雷」を降りて、最終的には埼玉県の川口市にて

余生を過ごした。

戦争で多くの仲間を失った工藤であるが、

自身は生き延びたのです。

また、駆逐艦「雷」は、その後連合国軍にやられ沈没してしまいます。

 

余生は、海上自衛隊や江田島海軍学校時代のクラスが在籍する、

大企業からの招きなどすべて断っていた。

工藤の日課は、毎朝、亡くなったクラスや部下の冥福を祈って、

仏前で合掌していたという。

 

一方、その後、工藤の消息をずっと探し続けた一人の

老人がいた。

彼の名は、「サムエル・フォール」。

彼は、雷によって救助された内の一人でした。

 

 

なんとしても、死ぬまでに命の恩人である工藤艦長に、

一度でいいからお礼を言いたかったのだそうです。

あの救助された日以来、フォール氏は一日として

工藤艦長のことを忘れた日はなかったという。

そのため、海上自衛隊や英国海軍に正式に調査を依頼。

しかし、なかなか工藤の消息をつかむことはできなかった。

 

ところが、その消息をつかんでくれた方がいた。

その方は、「恵隆之介」元自衛艦である方で、

恵さんのおかげで、フォール氏は工藤艦長のお墓の場所をつかむことができたのです。

 

ちなみに、この救助劇のお話は、

フォール氏がいなければ誰もが知らずに、

封印されてしまっていた可能性があったのです。

 

実は工藤艦長は、敗戦や仲間を失ったショックからが、

自身の海軍に関すること、そしてこの救助劇に関しては

身内にさえ話さなかったという。

そして工藤艦長は、1979年1月12日、78歳で生涯の幕を閉じた。

 

そして、2007年12月、ついにフォール氏は念願の

工藤艦長の墓に辿りついたのです。

フォール氏は足が不自由なため、

車いすで墓前に達したが、献花の時には満身の力を振り絞って立ち上がり、

工藤艦長に語りかけたという。

 

 

66年ぶりに命の恩人に対面した彼は、

一体何を思ったのか。

その後、フォール氏は2013年2月、95歳の年齢でこの世を去った。

本人と対面はできませんでしたが、

お墓参りができて本当に良かったです。

 

********************************************************

 

この話を聞いて、涙が止まりません。えーん

「海の武士道」とは、まさに敵味方関係なく、

相手を助ける精神なのだと思いました。

日本人は、困っている人を助ける美しい心を持っています。

その美徳を大切にしてきた日本は日本人の誇りです。おねがい

 

ポーランドと日本の友好関係は今でも続いています。

工藤艦長、かっこよすぎます!ラブ

誇りある日本を皆さんで取り戻しましょうビックリマークビックリマーク

 

https://tasuke-i.jp/