こんにちは、またミッシーです。
今日はTQMのキックオフ集会がありました。
今年のリハ科は、スタッフルームの引越しを機に、机上の整理整頓をするというテーマに取り組むことになりました。ちょっと前にもブログに書きましたが、5Sに取り組もうという姿勢です。
コナンの半沢直樹のモノマネ、なんか吹っ切れた感が伝わりました。これで怖いものがひとつ減ったな。
とまぁ、内輪の話はこの辺で。
さて、
今までの36年間を振り返ってみて、思うことがありました。
・・・あ、決して思い詰めてるとか、そんな心境では全然ありません。
私は恩師に恵まれていたかもしれません。
中学の部活の顧問の先生
高校の2、3年生の担任の先生
専門学校の担任の先生
就職したときの科長
道場の先生
今の私を形作るきっかけや、後押しをして下さった方々だと思います。
というのは、科長になって数年になり、ようやくそれなりの考え方、行動が解ってきたような気がしたんです。元々、人付き合いが苦手な私が、職場のスタッフだけでなく、病棟の看護師をはじめ、他職種の方との関わりの大切さ、他人の気持ちを理解することの難しさ等に気がついたようで、そんな時に周りの年長者に支えられていたのだと思いました。
そのおかげで、こんな私でも科長という任務を日々こなせるようになったのだと思います。
・・・あ、くどいようですが、決して思い詰めてるとか、そんな心境では全然ありません。
私は実は乱読、多読な読書好きです。武道の本を読むこともあり、中でも武術家の宇城憲治さんの本にこのようなことが書かれていました。
『師の存在は、自己流を戒め、個を伸ばしていく最大の導きだ。』
師を持つということは、存在そのものが、物事のひとつの基準になるそうです。「型」と呼んでもいいかもしれません。
そして、何かしらの一触が、言葉にも勝る教えであり、学びになるんです。別に1~10まで手取り足取り教わることではなく、ちょっとした一触で50も100も教えられるということです。
師の存在において、私は加えて、そこには一種の畏れ(おそれ)がありました。決して怖いという意味ではありません。畏れを感じるから、良い意味で見られているという緊張感があり、自分のやっていることが正しいのか、勝手なことをやっていないかどうか、師の基準と比べることができました。「型なし」にならずに済んだのかもしれません。
いつの日か、私も誰かのそんな存在になれればいいなと思います。
『克己』
“かつみ”じゃないですよ。“こっき”と読みます。
私の恩師は私にこの言葉を教えてくれました。