私は高卒だ。高校を卒業して工場に就職した。そこで目の当たりにしたのは、そこで働いている人達はお金を生み出すための部品であるということだった。
工場では機械を中心に全てが回っている。機会を止めてはいけないし、レーンの流れを止めてはいけない。数時間止めるだけで何百万円の損失が出ると上司に早々に脅される。
工場は動き続け商品を大量生産する。お金になる商品を生み出し続ける。しかしそこで働く人たちにその生み出されたお金が還元されるかといえばそうではない。
経営者になればすぐにわかるのだが、人件費は最大のコストだ。利益を還元する場所ではない。できる限り抑えたいのが人件費だ。
会社は利益を上げなければならない。工場を運営するにあたって給料をあげるということはコストの増加に他ならない。
工場の経営者が従業員に求めているのは、文句も言わずに安月給で言われたことを言われた通りにしてくれる人間である。
そして当時の社会には今よりも色濃くヒエラルキーが存在した。高卒の私には出世できる上限が決まっていた。
たまたま大卒の本部の新人が研修に来ていた。
彼らのことを上司に聞くと
「彼らは大卒で今後私たちの上司になる。私たちは彼らにはなれない。ここで工場の機械の一部として働いて、そこそこの給料をもらって生きていく。出世したいなら大学に行け」
私は社長どころか工場長にもなれないことを入ってすぐに知ることになった。それはまだ10代だった私にとっては衝撃的なことだった。
鳥取県という田舎に生まれた私にとって、そのヒエラルキーの環境、誰もがお金のために働き、会社のために自分を捧げている環境が当たり前だった。
今でもこのお金のために働くという人は大勢いる。ほとんどの人がそうだと言っても過言ではない。
高校を卒業し、奨学金を借りて大学を卒業し、企業に就職し、そこで会社のために働き、結婚して子供を授かり、35年ローンの家を買い、国産の車をまたローンで買って、子供を大学に行かせるためにまたお金を借り、それらを返すために一生懸命に働く。定年退職して退職金をもらって年金をもらいながら老後を過ごす。
これが日本の幸せである。私が当時から提示されていた日本人としての成功であり、多くの人がそれを疑うことなく目指していた。
常に大きな借金を抱え、子供を育てるという責任を負い、どんなに辛くても仕事を優先し、時には本当に死ぬまで働く。
私は高校を卒業した段階では、この当たり前の成功のレールからもすでに外れていた。
ヒエラルキーの下層に属し、会社の中でも歯車や替えの利く駒として配置され、上がることのない賃金で毎日、工場の機械の部品として定年まで勤める。それが私の前に敷かれたレールであった。
たしかに飢えはしない。衣食住は保証される。だがその未来に私は一つも魅力を感じなかった。それどころか、そんな自分の状況に怒りさえ覚えた。
今思えばあの時に見た大卒の新入社員ですら、先ほど言ったような当たり前の日本人の成功の青写真をしっかり歩いている人たちだった。
そういう意味では私は中途半端に社会に提示された成功のレールを走っていないだけ良かったのかもしれない。
企業の部品となることで社会の仕組みに疑問を持ち、どうすればこのグルグルと同じ日常を繰り返す社会のレースから這い出せるのかを考えることもなかったように思う。
私が幸運だったと思うのは、そのような疑問を持つことができたことだ。
世の中には親から大学に行って良い職場に入ってそこまで定年で務めること、それが勝ち組の条件である、それが最善の成功であると教えられ、それに疑いを持たずに生きて来た人達が沢山いる。今でもその傾向は根強い。
それを全否定するわけではないが、お金や社会の正体に気づき、知っている側に立ってから言えることは「まず疑問を持て」と言うことだ。
経営側の視点や会社や税金の仕組み、投資や資産の意味、お金そのものの正体を知るには、まず世間の当たり前に疑問を持つことだ。
何故ならその仕組みを知らない人たちは、先ほども言ったような提示された成功のために借金をして、生涯お金のために働くことになる。
そしてお金が充分に得られるかと言えばそうではない。常にお金が足りなくなること、お金が返せなくなることに恐怖し、働き続ける。
そうなるように社会が構築されているし、生涯一生懸命に会社のために働くように私たちは価値観を植え付けられて教育されている。もちろん本当のことは誰も教えてくれない。
なぜ大学に通うために何百万円という莫大な金がかかるのか。それを払うために社会に出る前に多額の借金をさせるのか。
さらにその借金に利息がつく。つまり儲けがでている。国の制度で貸し付けているのに利息をつけて社会に出てすらいない情弱な若者から利益を得ているのである。
こういった国の政策や制度を見ても、レールに乗っている人たちは親も子供も疑問に思わない。文句も言わずに借金をして大学に子供を通わせる。
大学の費用が高額なことや、奨学金に利息があることに誰も疑問を持たないのである。知っている側、つまり経営の経験や、社会の利権ビジネスを知ることによって、その仕組みがわかるのである。
高額な費用を払って借金までして大学に行き、そこで高度な教育を受けているのかと言えばそれも疑問だ。
多くの大学生はサークルに入って遊んでばかりいる。単位を取って卒業できればそれでいい。授業は聞いていない。
大学に入った目的はそこで高度な教育を受けることではなく、大卒という称号を得るためだから、卒業できればそれでいい。多くの学生がそのような価値観で大学生活を過ごしている。
これは偏見でも何でもなく。割と一般的な周知の事実だ。資格を取るために大学に行き、しっかりと目標の仕事に就くために勉強をしている若者も沢山いるだろうが、世間の大学生のイメージが前者で定着してしまうほど、大学でしっかりと学んでいる学生は少ないように思う。
私が工場で見た大卒のエリートたちは借金をしていたか、親が死ぬほど働いた金で大学にいって、あの場所にいたのだと思う。
私はそのレールから運よくそれて疑問を持ち。お金の正体を知ることになったのである。
そういった経緯もあって私は高卒であるということにコンプレックスがない。学歴を聞かれてもすぐに答えることができる。
何も恥ずかしいことではない。むしろ高卒ですぐに工場に就職してよかったと思っている。
グルグルと同じ毎日を会社の部品として過ごすレールから飛び出すには勇気はいるが、最初は疑問をもって考え方を変えていくだけでいい。
社会は文句を言わず会社の奴隷になって働く人々を作っている。その為の価値観の植え付けと教育をしている。
政府はその人たちからいかに文句を言わせずに税金を払わせるかを考えている。政府と大企業や経団連は同じ目的と方向を見ている。
社会の当たり前になっている制度や仕組みをおかしいと思ったほうがいい。
「疑問を持て」
鳥取の田舎に生まれた高卒の私が、ここまで這い上がってこられたのだ。抜け出せないということはない。
これからそのサイクルを抜け出すための沢山のアドバイスをしていこうと思う。それを読んだ人の考え方が変わって、人生が好転していけば幸いである。