女坂を登って



御忌日中法要中の御影堂へ。


そもそも御忌とは



御忌大会(ぎょきだいえ)は、法然上人がお亡くなりになられた日を期して行われる忌日法要です。


4月18日午後から25日までの8日間、御影堂にて日中・逮夜の各法要が勤められます。



法然上人の忌日法要を「御忌(ぎょき)」と呼ぶようになったのは、大永4年(1524)に、後柏原(ごかしわばら)天皇が、「大永の御忌鳳詔」という詔勅(しょうちょく)を下されたことによります。その勅旨には、「毎年正月、京畿の門葉を集め、一七(いちしち)昼夜にわたって法然上人御忌をつとめ、はるかに教えの源をたずねよ」とあります。
ここに、御忌は勅会(ちょくえ)として定められ、1月18日よりご命日の25日まで、法要が営まれることになりました。以来、天皇の忌日法要を指す「御忌」が、法然上人に対しても用いられることになったのです。




江戸時代になると、徳川家の外護(げご)を受けて慶長年間にほぼ現在の知恩院の寺域が整います。それとともに、御忌の法要もまた、法然上人の教えを慕う全国の人々が集い、ますます盛大に勤められるようになりました。当時の人々が、一年の寺参りの始めとして華やかに着飾って参拝に出かけたこともあって、御忌は「衣装競べ」とも呼ばれました。「着だをれの京を見に出よ御忌まふで」(几董)という句も残されています。また「なには女や京を寒がる御忌詣」「御忌の鐘ひゞくや谷の氷まで」(蕪村)とも詠まれていますから、冬の寒さの残る中での京都詣でだったようです。
明治10年(1877)より、多くの人々に参詣いただけるよう、旧暦の1月から、時候の良い新暦の4月に御忌が勤められるようになりました。



御影堂のお厨子にいらっしゃる法然上人が御手に執られた五色の糸が綱となり、念仏結縁柱に結ばれています。



浄土宗のトップの錚々たる方々


後柏原(ごかしわばら)天皇から詔勅を賜ったとき、笏(しゃく)も共に下賜(かし)されました。これにちなんで、逮夜(たいや)法要では、笏を打ち拍子をとり、念仏を称えながら堂内を練り歩く「笏念仏(しゃくねんぶつ)」行道(ぎょうどう)が行われます。
逮夜法要は本来、御門跡猊下が導師を勤められますが、明治12年(1879)より宗門興隆のため、特に貢献された諸上人に御門跡猊下の御名代として御奉仕いただいております。


開始日だけ本物の笏が使われるそうです❣️





足を踏み入れた御影堂の中は、

不謹慎ながら映画の撮影ですか⁈と思うほどの絢爛豪華な世界が広がっていました。


煌びやかな七帖袈裟。
何十人という僧侶が細長い帽子のような水冠を一斉に被られた瞬間にはなぜか鳥肌が立ちました。

日中法要では、法然上人を讃える節付きの諷誦文(ふじゅもん・祖師報恩の志を述べる文)の唱導(しょうどう)が行われていました。


諷誦文を唱える役の「唱導師」さまのお声が美しい😍


唱導師をされる方は、諷誦文の唱え方や作法を半年にわたって練習されるそう。

唱導師は、内陣中央の高座へ、御門跡猊下は、外陣寄りに設えられた高座に着かれます。
当日は紫色の衣に、浄土宗独特の七九条(しちくじょう)袈裟を被着し唱導師を勤められます。(ホームページ参照)



父のご回向時にはいつも閉まっている、

西脇檀にある徳川家康公のお厨子も開いていたので、遠くからではありますがお像も拝見叶いました^^


おまいりツアー、もう少し続きます。