伏見が舞台の講談、浪曲、落語を通して地域の歴史や文化を深く知り、
日本の伝統話芸を再発見する
〝伏見再発見!日本の伝統話芸再発見!〟
2月11日(日・祝)拝見拝聴してまいりました^^
場所は京都市伏見区の丹波橋にあります
呉竹文化センターです。
主催した一般社団法人「ラ・ネージュ」の代表理事・四方有紀さんの挨拶の後、
伏見城研究会会長の若林正博さんの基調講演
〝なぜに伏見?〟から始まりました。
以外メモより箇条書きです。
・京都と伏見は大阪と堺の関係に似ている。
市内11の行政区のうち、十条通り以南にあるのは伏見区役所の1つだけ。
・もともとの伏見は下鳥羽・堀内(桃山)・伏見
・鎌倉と伏見の比較
竹田街道から明治天皇陵は海岸から鶴岡八幡宮が同じ位の距離
・伏見は秀吉終焉の地だが江戸の苗床であったと見ると見方が変わる。
伏見には北は津軽から南は鹿児島までの大名屋敷があった。(現在も住所にはその名残がたくさんあります)
・家康の在伏見
家康…1603〜1605…462日←殆ど伏見に居た
秀忠…1605〜1623…340日
家忠…1623〜1651…41日
伏見に居て、政権の基盤をどこに移すか考えていた。日本最初の銀座を作ったりして政権の最初のトライアルを伏見で行っていた。
・伏見幕府
首都はどうなった?
家光の代で伏見城はなくなる。
江戸で済むようになった。
近世も、半分の地・町人の町で済むようになったので、大名屋敷の辺りには桃が植えられ、桃山の地名が出来た。(確かに大名屋敷のあった辺りの町名には
桃山がついています)
・そして都市として再生
陸上交通の要衝となる。
京都には大きな川は入っていないので、伏見で積み替え、京都へいく。水上交通の要衝でもある。
日本橋から京都までの東海道五十三次に、京都から大阪までの4宿(伏見、淀、枚方、守口)を加え「東海道五十七次」と呼ぶ場合もあります。
・淀川沿いの京街道の絵は日本第二の都市・大阪と第三の都市・伏見を繋いでいた往時の賑やかさが垣間見れる。
・守口宿は江戸の品川に匹敵した
・参勤交代の日本第一の都市へ
西の大名は船でやって来て、伏見から遡る。
伏見京橋の図は今のゴールデンウィークの京都駅のにぎわい。
・人口100万超の江戸
約30万の大坂、京都
10万の名古屋、金沢
5万前後の広島、和歌山…←他都市のような城下町ではなく宿場町で伏見がここに入る。
長くなったので続きます。