🍁秋限定の小野小町の御朱印🍁



昨日

の続きです。



如意輪観音さまや諸仏を堪能して、
お土産コーナーを見ていたら
拝観に来られた方に
「2時から住職の講演があります」と話されているのが耳に入りました。
時計を見ると丁度2時❣️
金魚のフンのようにその方について行きました(笑)


右奥に本堂が見えるお部屋です。

テーマは
〝小野小町と随心院〜謎の美人、小町〜〟

つかみは

日本では世界三大美人と言われますが、
(御住職が)中国に行って尋ねたら誰も小野小町を知らなかった。日本だけの世界三大美女。さらに、三大美人のもう一人・楊貴妃も中国ではNo.1の美女ではなく、No.6くらいだった

聞いてみないと分からないものですね爆笑

小町は六歌仙に選ばれ、衣通姫(そとおりひめ)に例えられています。
衣通姫は当時の絶世の美女で、その美しさが衣を通して現れていたからその名称がついたといわれています。小町は当時から、高い学識と美人の誉れが高かったと思われます

随心院との関係は
小野良実(小野篁の子)の娘として、弘仁六年(815)出羽国(現在の秋田県)に生まれ、仁明朝五節の舞姫(ごせちのまいひめ)として宮中に仕える。
後、仁明天皇の更衣(こうい、妻の位のひとつ)として寵愛を受け、崩御の後、現在の随心院の地に戻って暮らす。この時に多くの貴公子から恋文を貰う。百夜通い(ももよがよい)の伝説(深草少将とのロマンス)など多くの恋に破れ、失意の内に各地を放浪し、哀れな晩年を過ごす。終焉の地は不明

深草少将なる人物はいなかったとか、随心院から深草まで、小町が植えたカヤの木があったとか、
仁明天皇だけを想い、他の人には目もくれなかったとか、色々な話が伝わっていますね。


歴史上からみた小町は
天長三年(826)に出生し、昌泰元年(898)に亡くなる。父は小野篁、母は左大臣・藤原冬嗣の娘で、三の君で、当時の婚姻関係から藤原冬嗣邸で生まれた可能性が高い。
文徳天皇の更衣として仕え、その崩御の後も宮中にあり、貞観十年(868)に従四位下、寛平八年(896)正四位上に叙せられ、昌泰元年には醍醐天皇の命令で神泉苑において雨乞いの歌を献じている。以後、正史に小町は現れない。文徳天皇との間に子どもが生まれた記録はない。以上のことから、小町は昌泰元年以後に京都で亡くなったと見るのが常識


随心院の伝えでは仁明天皇の更衣、
天皇家の記録では文徳天皇(仁明天皇の子)の更衣、と微妙に年代と配偶者がズレますが、
天皇家の系図に出てくる方を正しいとされて話が先に進みます。

文徳天皇の更衣で小野氏の娘を調べて見ると小町の正体が類推できる。小町は一体誰でしょう?

小町怨霊説に話が行きます。

なぜ小町は六歌仙に選ばれたのか?
なせ小町は日本一の美人とされるのか?

長くなったので明日の夜に続きます。


今夜も見に来てくださって
ありがとうございます。

今日も幸せでしたね。

明日のあなたも
たくさんのハッピー♪
ありますように✨