天皇寺の続きです。
しかし都はこれを受け取らなかったため、
崇徳院は皇位継承を巡って、
弟の後白河天皇と対立。
これが武士たちを巻き込む争いとなりました。
その争いが保元の乱(保元元年1156年)です。
戦いに敗れた院は、
讃岐国に流され、失意の中、
46歳で崩御されます。
崇徳院の亡骸が荼毘に付されるまで、
3週間近く安置されていたのが、
生前、院がしばしば足を運んでいたこのお寺でした。
亡骸は霊泉の水で清められ、
そのお顔はまるで生きているようだったそうです。
生前の崇徳院は、
讃岐での日々をひたすら写経で過ごし、
3年がかりで完成させた膨大な量の写経を都に送りました。
院は人々を呪いながら亡くなったといいます。
その後、都で異変が続き、
〝崇徳院のたたり〟と恐れた朝廷は、
崇徳院の霊を慰めるため、
ここに崇徳天皇社(現在の白峰宮)を造営。
寺号も崇徳天皇寺と改めました。
白峰宮は〝天皇さん〟と呼ばれ親しまれているそうで、
崩御した崇徳上皇が祀られているのは
上皇の御陵に隣接する
第81番札所・白峯寺です。
御朱印