《 前書き》

これは2011.4月に京都新聞に掲載された実話の記事をもとに書いたものです。

その2年後に登場人物の名前を変えたり、架空の人物を登場させたりして、
SNSで心あるお友達に公開しました。

アメバブログでは2016年から公開しています。


直接の支援は出来ないけれど、

後方支援なら可能、

そんな人がいてもいいと思うのです。

離れた所からでは甘いかもしれないけれど、

災害列島の日本。

発生した自然災害とその後を気にしている人間はいます。

細く長く
繋がっている気持ちは同じです。

 亡くなられた方々のご冥福をお祈りします。
と共に
悲しみ苦しみの大変な道にいらっしゃる方々に
少しでも生きる希望が増していますように。



*・゜゚・*:.。..。.:*・'・*:.。. .。.:*・*:.。..。.:*・'*:.。. .。
 

『希望の花』

 

 

彼はパンジー。

紫のベースに白い模様が入っていて、
皆には“ミッキー”と呼ばれている。

 

海に面したある県のある市で
「お父さん!お母さん」と呼んでいる
一雄さん薫さん夫妻に育てられた。

明日はいよいよたくさんの仲間と
都心方面に出荷される予定だ。


 

どんな人が買ってくれるのだろう。


植えられるのはプランター?
それとも植木鉢かな、地面かな。


そこからはどんな景色が見えるのだろう。

ここまで愛しんでくれた育てのお父さんお母さんから離れるのは少しさみしいけれど


これからのことを考えるととてもワクワクしてくる。

 

ところが。

 

 

ある年ある月ある日のあの時間…

信じられない揺れが襲った。

 


 

気がついたら
育苗用の黒いポットから飛び出し
ビニールハウスの床に落ちていた。


周りにも仲間が散らばり、
土や黒いポットが散乱していた。

 


コワイヨー

 

 

 

 

イタイヨォ

 

 

 

 

 

クルシイヨ……

 

 

 
そんな言葉は陳腐過ぎた。



何も出てこない。
 

 

 

 とてつもない痛みの後

叫べたけれど
僕たちの声が聞こえる人なんていなかった。

 

 

咲いている花を眺めてもらうことも
蕾を咲かせることもなく
このままここで死んでしまうのかな。


太陽の光を感じる力もどんどん弱くなっている気がする。


全身がだらんとしてきた…

 

 

どれくらい経った頃だろう。

 

 

物凄い喉の渇きで気がついた。

 

その時、
お父さんとお母さんがビニールハウスに走りこんで来た。

「あーあ。可哀想に…」

「早く戻してやらないと」

 

そう言うと、散乱したポットを集め、
放り出された僕たちを土と一緒に植え戻していった。

「大丈夫、大丈夫」と優しくみんなに話しかけながら。

そして水をたっぷりと与えてくれた。

 

はぁーっ。

 

深い深いため息をついた。
けれど何が何だか分からない。

 

そう言えばお父さんたちはいろんな話をしていた。

 

中には聞きなれない言葉もたくさんあった。

 

地震、寸断、復旧・・・

 

僕はパンジーネットワークを使って
隣の台に置かれている仲間に話しかけた。

 

「一体何が起こったんだろう」

「さっきの揺れ、大地震だね」

「その後、今まで見たことがない大津波が来たらしいよ」

 

 

パンジーネットワークとは
動物の鳴き声の植物版。

人の耳では聞き取れないけれど、
僕たちもお互いに話ができるのだ。

それぞれの植物がラジオの周波数みたいなネットワークを使って仲間とやり取りをしている。

中にはいくつかのネットワークを操れるものがいて、ほかの植物からの情報を得ている。

それはまあ
人間で言う所の通訳みたいな役割だろうか。

ただ、普通に仲間と直接やり取りのできる範囲は限られている。

だから遠くの仲間とやり取りしたい時は、
人間がする“伝言ゲーム”のように
仲間が言葉を伝えてくれる。

ただし完璧に録音・再生を行うので
最後に内容が変わってしまう人間の伝言ゲームとは全く違う。

 

 

しばらくしてビニールハウスの外側に一番近い、中間色のパンジーが叫んだ。

「僕たち出荷できないって」

「どうして?」

「どういうこと?」

 

「ちょっと待ってね」

 

 

そう言うと
近くの藤の木と話を始めた。
そしてこう説明してくれた。

 

「藤の木さんの話によると、東北地方と関東地方を襲ったさっきの大地震で、今までにないほどの大津波が起こった。その大津波は沿岸の町の全てを洗いざらい奪って行った。それで出荷ルートも無くなってしまい、いつ復旧するのか全く分からない。言葉にならない状況らしい。」

 

みんなうなだれてしまった。

 

僕は又、頭が凍ってしまったみたいに
何も考えられなくなった。

 

こんな時はそうだ、とりあえず寝よう。

身体も心も休めよう。

もしかしたら夢かもしれないし。

明日になれば変わっているかもしれない。

考えるのは明日にしよう。

 

 

 

 

 

 

 

 

次の日になった。

 

 

 

 

 

 

 

 

夢どころか、更にひどい現実が広がっていた。

 

 

 

 

お父さん達の自宅と僕たちの住むハウスは港から1キロほど離れた高台にある。

おかげで難は逃れた。

けれど、ライフラインは寸断され、
近くの中学校は避難所となり
たくさんの人たちが避難していた。

 

僕がぼんやりしているとお父さんとお母さん、それから5人の若い男の人がハウスの中に入ってきた。

「ここの台を全部奥に詰めたらどうでしょう」

「そうですね」

「じゃあ私たちは隣のハウスのビオラを運びます」

そう言うと男の人3人は外へ出て行った。

その間にお父さんお母さんとあとの2人で僕たちは奥の方に移動させられた。

 

入口に近い所が広くなり、そこに僕たちと同じ位の数のビオラの苗が置かれた。

「これであちらのハウスを使っていただけますね」

 

お母さんほ少しだけほっとしたように見えた。

 

 

僕たちはずっと、
山から引かれた水で育てられている。

そのパイプはどのハウスにも繋がっている。

だから地震でライフラインがダメになってしまった後も、水には困らなかった。

有難いほど豊富な山の水。

そこで
ハウスの一つを洗濯場として
被災された方たちに提供したのだ。

 

 

また朝が来た。

 

 

震災から何日目だろうか。

 

もうよく覚えていない。

 

今日も洗濯に訪れるたくさんの人たちの声を聴いて過ごすのだ。

 

たくさんの嘆きや苦しみ、
悲しみ。

憤りや怒りも。


まれに大きな喜びがあり、
ささやかな楽しみもある。


言葉の他の、抱えきれないで滲み出る思いを感じるうちに、いつしか僕たちが出荷直前の花苗だったのを忘れていた。

それを思い出したのは根の痛みに気づいたからだ。

毎日、より確実に根は伸びて、
数日前からポットの底に届いていた。


蕾も次々に咲いている。

 

僕たちはどうなるのだろう。



とりあえずはここで大した不自由なく咲いてはいられる。

 

でも…

 

ふっと不安になった。

 

 

 

 

パタパタパタ。

 

聞きなれない音がして、ビニールハウスの横からピンクのフリースの上着に
デニムをはいた小さな女の子が入ってきた。


僕たちを見て


「きれーきれー」

と喜び、とっても幸せな笑顔をみせてくれた。

 

でもあんな所に入口なんてないよね⁈

 

どうも
この前の地震で
ハウスの横枠がひしゃげてしまい、
ビニールの破れた部分があるようだ。

 

「さくら。さくらー」

 

外でさくらちゃんのママらしき人が呼んでいる。

 

ここにいるんだけれど・・・

もどかしく思っていると

 

「ママぁきてー。おはなさん、いっぱいだよ」

 

半透明のビニールに顔をくっつけて
母親を呼び寄せた。

 

「まぁ、この子ったら勝手に入って」

 

さくらちゃんの入った破れ目は
ママさんの背の高さからでは見えないらしく、
ハウスの入り口に回った。

でも鍵が掛かっていてドアは開かない。

 

「一体どうやって入ったの?」

 困って立ち尽くしていた。

そこへ運よく、
僕たちの様子を見る為にお母さんがやってきた。

 

「あら、さくらちゃんのお母さん。何か?」

「すみません、さくらが中に入ってしまって」

「えっ?」

 

ドアは開かない。

 

首をかしげながら鍵を開け2人は中に入った。

 

「うわーっ凄い!!何てたくさんのパンジー。
とってもきれいですね」

 

「ありがとう。でも…
根が巻き始めた物があって、
花も咲いてきて実は困っているんです。

震災で出荷ルートは断たれてしまったし。
みなさんに貰って頂こうかとも思ったのですが、

こんなに毎日が大変な中で
花どころじゃないでしょうし…」

 

そう言うとお母さんは
そばにいたさくらちゃんに
白いパンジーを1株プレゼントした。

 

「おばさん、ありがとう」

 

ピョコンと頭を下げてお礼を言うと、
さくらちゃん親子は手を振って帰って行った。

 

 

その夜。

パンジーネットワークで白いパンジーが教えてくれたことには、

帰り道でさくらちゃんのママさんは白いパンジーを見ながらずっと何かを考えていたようだ。

そして同じ市に住む知人の真由子さんに
少し長いメールを送った。

 

“突然ですが、お願いがあるんです。

私がいつも洗濯機を貸して頂いているのは
花苗農家さんなのですが

今回の事で出荷できないそうなんです。
「皆さんに貰って頂こうかなー」なんて話されています。

でも、何の不足もない立派な花の苗です。
皆様のご協力をお願いできないでしょうか?

直ぐにでも出荷は可能です。
種類はパンジー、ビオラで。
今年のビオラは花が大きいようです。

お願いできる場合はお名前、送付先のご住所、
ご連絡先を私までメールでお知らせください。

お支払いは後程お願いいたします。
被災地を助けてください。
よろしくお願いいたします”

 

 

メールを受け取って真由子さんはすぐに1000株を送ってもらうように返信した。

農業を営む者として、手塩にかけた作物が出荷の機会を失うやり場のない辛さを、少しでも何とかしたいと思ったのだ。

 

翌日の夕方、早速1000株のパンジーが運ばれてきた。

どれも愛情と手間をかけて育てられたのが分かる、元気で質の良い花苗たちだった。

その姿を見て真由子さんは決心した。

 

私にできる事をしなければ。

 

 

そして先ずデジタルカメラで色とりどりのパンジーの写真を撮り、ホームページを立ち上げた。

 

その名も

 

“被災地の花を植えようプロジェクト”

 

家業の農作物を販売するホームページを作成し運営しているので、新しく作るのもお手の物だった。

トップページにはパンジーの美しく可愛らしい写真を載せ、こう記した。

 

“広い範囲を襲ったこの度の大震災。

今回の大震災 かつて無いほどの大津波を引き起こし、沿岸地方に甚大な被害を引き起こしました。

町の全てを洗いざらい奪った津波の後に残った花があります。

震災で出荷の機会を失った被災地の花を買って
あなたの傍へ植えていただけませんか?

花を買うことは直接、被災地の産業と人々を支援することに繋がります。

花苗の売り上げは、被災地の農家さんへ直接支払われます。

花苗の出荷は、運送ルートが復旧していない被災地から一度内陸部に運び込み、そこからお客様の皆様へお届けいたします。”

 

 

一気に書き上げて携帯電話のメールをチェックした。

そこには真由子さんが京都に住んでいた時の知り合いの松木さんからの返信メールがあった。

昨日、さくらちゃんのお母さんに1000株の発注メールを送った時、松木さんには花の販売先についての相談メールを送っていたのだ。

 

“今月の23日に私が参加している町の地域福祉ネットワーク会議と地元の女性会がイベントを開催する予定です。そこで販売させてもらいます。500株送ってください。”

 

真由子さんは思わず、やったー!!と小躍りして声を上げた。

 

そして先ほど作ったホームページのトップに記した文章の下に、それまでより文字の大きさを4倍にし、

色も黒からオレンジ色に変えて

 

“被災地の花を植えよう運動は少しずつ広がっています!”

 

と付け加えた。

 
 

その後
パソコンを閉じると真由子さんは、
被災地以外に住む個人的な知り合いに
事の次第とホームページのアドレスを書いて、
携帯電話でメールを一斉に送った。

 

 

 

 

周りの三分の一ほどの仲間が
「京都へ行ける」と浮かれて
出荷される様子を眺めながら、

僕は複雑な気持ちでいた。

 

パンジーとして生まれたからには、
ハウスを出て、人様の目に付くところで
笑顔を絶やさず、
最後のひと花までちゃんと咲いて喜んでもらう。

それが使命だと思っていた。

でも、今の本当の気持ちは
ここから離れたくない!

瓦礫の街にいるお父さんとお母さんの傍にいてあげたい!

どこにも行くもんか!

神様、もし本当にあなたがいるのなら、
根の痛みなんかいくらでも我慢するから、
もう蕾も咲かせなくていいから、
ここにいさせて下さい。

ひたすらそう願っていた。

 

 

3日後、
松木さんは、届いた500株のパンジーを
一株ずつポットから出して
根の状態を確認していた。

 

約100株の根が底の方で2㎝以上巻いてしまい、白い層になっていた。

 

イベントまでまだ日があるので、それらは大小約60個の植木鉢に植え替えて売ることにした。

勿論その売り上げは全額お父さんの元に届ける。

ついでだから何か他にも、と考えて衣類のフリーマーケットや飲み物も販売しよう。

それらの収益も全額被災地に贈る予定だ。

 

せっかくなのでダメもとで地元の新聞社の地域報道部に電話をしてみた。

 

「はい、みやこ新聞社地域報道部・吉田です。」

 

「…町に住む松木と申します。」

 

「いつもご愛読頂きありがとうございます。今日は何か?」

 

「震災を逃れた“奇跡の花”があるのですが…」

 

 

数日後、自宅まで吉田さんが取材にやってきた。

真由子さんの“被災地の花を植えようプロジェクト”についても触れ、これまでのいきさつを詳しく話した。

するとホームページも一緒に紹介してもらえる運びとなった。

 

記事はイベント前日の4月22日。
夕刊の一面に“京で咲かそう~奇跡の花~”の見出しで、カラー写真とともに掲載された。

 

その記事を興味深く読んでいる病気療養中の女子高生がいた。

「良い話なんやけどなぁ。こんな身じゃ買いに行けへんし…。

また別に私でも出来る事探そう。」

 

残念な気持ちで読み進めると最後にホームページのURLが載っていた。

急いでパソコンを立ち上げた。

 

これだ!

これならできる。

そう確信し、即購入した。

 

募金もしているけれどニュースではいつ届くか分からないと言っている。

もどかしすぎる。

被災地の人に本を持ち帰ってもらうイベント、
ランドセルや鍵盤ハーモニカを送る運動、
NGOを通して女性向けの必需品を送ったりもした。

でも。男性が仕切る避難所では、
ほんの一部の出来事かもしれないけれど、
そんなものは不要だ!と言われ、
受け取りを拒否された記事を読んでげんなりした。

 

退院したとしても
こんな身体じゃボランティアに行くのも難しい。

じゃあ花を植えるのは?

 

「毎日休み~」と揶揄される私なら直ぐに植えられる。

特に花の苗は時間との勝負だ。

おまけに“仕入れは花苗農家さんの負担にならないように配慮して現金仕入れとし、売り上げは経費を除き、現地の花苗農家さんへほぼ100%還元されています”とある。

わかりやすいシステムだ。

こんなに心が明るくなる協力方法があるなんてとワクワクした。

 

 

その頃ハウスでは、とうとう僕が出荷される番が来ていた。

 

「京都で可愛がってもらってね。」

 

お母さんに僕はずっと「京都になんか行きたくない!」と叫んでいた。

 

「でも、先に行ったみんなは日本各地で大切にされているみたいだよ。

君もパンジーネットワークで毎晩聞いているだろう。」

 

濃い紫色のブロッチ(目)があるパンジーがイラッとして言った。

それは確かに僕も知っている。

北海道や横浜、京都などへ先に出荷された仲間は皆嬉しそうに話していた。

 

「これは津波を逃れた幸運のお花だから大切に植えてや―って言いながら配ってもらったよ。」

 

「遠い所来てくれてありがとうって言われたよ。

その人は何かしたいと思いながらいたけれど何もできないでいたらしいよ。

だからこんな形で少しでも協力出来て嬉しいって。」

 

「僕は病院にいるよ。ホントは土のものはダメらしいけど、災害を逃れた運の強い花だから先への希望が持てる、あやかれますようにって患者さんが毎日写真を撮りに来るよ。」

 

 

皆の事を思い浮かべているうちに真由子さんの所に着いた。

とうとうお父さんお母さんと離れる時が来た。

僕は「こんなのは出荷できない」と持って帰ってもらえるように
全身の力を抜いて弱弱しく装うとした。

でも、お母さんが

「いつもありがとうございます。
この子たちの落ち着き先が決まって本当に感謝しています。
ここに来るとホッとするんです。
周りの家はほとんど流されて、
あちこちでご遺体が上がってきます。
毎日瓦礫の山ばかりを見ているのは辛くて…」と言うのを聞いてハッとした。

 

「このお金で久しぶりに道の駅でお風呂に入り買い物をして帰ります。」

 

この時、僕は気がついた。

 

いつも笑顔でいたお母さん、
ずっと気持ちを抑えていたんだ。

僕たちをここへ運んでくるのが
ささやかな気分転換になっていたんだ。

それから僕は願いを変えた。

みんなの出荷先が決まりますように、と。

 

 

やがて僕は
配達日に合わせて一日退院許可を得た女子高生の家に着いた。

 

これから僕を育ててくれる人が段ボール箱を開けてくれた。

 

「遠い所がんばってきてくれたね。すぐに楽にしてあげるからね。」

仲間と共に素焼きの鉢に植え替えられた。

 

ハアァー。

 

根がのびのびする。

 

生き返った気分だ。

 

お水もたくさんもらった。

今までのとはちょっと味が違うけれどそのうち慣れるだろう。

 

「ここの家の人はね、みんな、
毎日私たちに“うちで咲いてくれてありがとう”とか“きれいだね”って言いながら手入れしてくれるんだよ。だから何も心配しなくていいからね。」

 

先に来ていたボルドー色のビオラが教えてくれた。

 

じゃあとりあえず好きなだけ根を張って
順番に花を咲かせる準備をしよう。

 

「ねえねえ聞こえる?」

 

白地に水色のブロッチを持つパンジーの声がした。

 

「私も近くにいるのよ。和顔幼稚園。
あなたの所の女子高生がここの卒園生だった縁で購入してくれたそうよ。
さっきPTAのお母さんや先生方、
それにうさぎ組さんとりんご組さんが植えてくれたの。
その時、青山先生がね
“希望の花を植えて被災地の復興と日本の未来を祈りましょう”と挨拶されていたの。
感動したわ。」

 

僕たちが“希望の花”?

 

不思議でしょうがなかった。

 

今までも“幸運の花”とか“奇跡の花”と言われているのを聞いてはいたけれど実感なんてなかった。

 

正直今もない。

 

僕たちはただのパンジーとビオラだ。

そんな特別な意味なんてあるはずがない。

助かったのはたまたまだ。

 

 

でも、僕たちが咲いている限り、
関わった人や購入した人は
被災地の事を忘れはしない。

 

絶対に。

 

だったら“希望の花”でも“幸運の花”でも“奇跡の花”でもいいか。

 

今いる場所で一生懸命咲くだけだ。

 

あちこちで咲き続ける
小さな小さな僕たちの仲間。

 

それは被災地の奇跡的な復興を願う、
小さな事しかできない
多くの一般の人の願いが集まっているのだから。

 

 

おわり