庚申塚商店街に100台のヒルマンとルノーが並んで道を塞いで居ました。500メーター近く伸びている商店街は駐車場と成ったのです。


   お断りして置きますが、商店街とは名ばかりで畑の中に作られた日光街道の生活道路だったのです。今では巣鴨の商店街として原宿並みの賑わいを見せて居ますが、巣鴨の土地は大きな野菜市場で象徴される荒川右岸の野菜の生産地だったのです。

        態々此れを取り上げるのは、開成道路として18番の都電を拡げたのでは無かったのです。

   東京の野菜市場は、畑から収穫した野菜を荷車で持ち込み易い土地に作られたのです。市場が出来れば其処に落ちるお金を目当てに屋台や飲み屋が作られたのです。

   元々庚申塚とはお寺でも神社でも無い目印に過ぎないのです。つまり、畑と荒れ地の土地の中心と成る様に作られたお地蔵様なんです。其処に何が集まるのかは言わなくても判るでしょう。


   前に言った様に板橋には岡場所が有りましたし、大塚には検番が無い三業地が有ったのです。巣鴨の畑の中に野菜市場が作られれば、其処に落されるお金に集るのが何なのかは言わずと知れた物でしょう。

   都電の18番は、板橋から神田橋までの路線でした。神田橋とは日本橋川に作られた物資の積み下ろしの場所だったのです。都電が板橋から神田橋に作られたのは。何を運ぶ電車なのかはお判りでしょう。戦前の野菜は細々と荷車で運んだのです。

   18番の都電は板橋の農民の利用の為に作られたのです。其れが巣鴨に野菜市場が作られれば、政府の思惑とは別の発展をしたのです。

       

        其処で、東京震災を教訓として、開成道路が作られたのです。庚申塚の商店街は曲がりなりにも生活拠点と成って居たのです。

   其処には手を着けないで、野菜市場の前にはびこって居た屋台や怪しげな飲み屋を一掃したのが

        疎開道路と言われて居た

中山道だったのです。


   態々此れを取り上げたのは、白山から延びていた日光街道がどんな街道だったのか知って貰いたかったのです。

   板橋の仲宿には江戸幕府半公認の岡場所が作られて居たのです。地名の仲宿とは、宿が半分と言う意味付けなのです。

   吉原遊郭が有れば浅草には淫売宿は作られませんでしたね。其れと同じに仲宿に岡場所が有れば、板橋や畑しか無い巣鴨にも売春宿は出来ませんね。ところが巣鴨に大きな野菜市場が作られれば、当然の様に仲宿目指すお客を足止めし様とする飲み屋が作られたのです。


        市場に群がるのは酒と女を売る人たちだけでは有りません。

        浮浪者と称する宿無しが

集まれば、先ず焚火ですね。其の人たちは国家権力でも警察権力でも排除できません。


   其処で考えられたのが疎開道路なのです。本来の目的は交通手段では無いのですね。ですから巣鴨の疎開道路は、巣鴨市場が浮浪者や飲み屋が作られるのを排除したのです。

   此の特殊性がお判りに成れば、庚申塚の商店も買い手の客が少なく成るのは当然なのですね。

其処に目を付けたのが巣鴨のプロテスタント教会だったのです。元々は教会の敷地に作られたのが十文字高校だったのです。


   根津の娘たちが入学に際して、敷地を大きく広げて講堂と体育館を寄付したのです。其の付録として宗教色を排除した理事会を作ってマリーが会長に就任したのです。

   「 此んなバカ見たいな体育館を作って狂るってると思ったのよ。」

   其れが今、大卒業式で300人もの関係者を収容できる会場に成ったのです。

       ハッキリ言うと、ローマカソリックに反発するプロテスタンは発展の望みは少ないのです。資金が流れて来ないでしょう。協会のお布施で持ち応えようとしても、多くの反カソリックの協会は自滅して行ったのです。娘たちは大学の系列の無い自由な十文字を選んだのでしょうが、思い切った資金の投入で、

       青森―神田市場―根津中―十文字

で、娘たちの歴史を残して遣りたいのが僕の想いだったのです。