住めば都ってお住まいで無いお方が勝っ手にお造りに成った物語ですのね。

       三度住み替えて満足できる家が見付け

       られる

と、申しますでしょう。お暮らしに満足為さっている方は三組にお一人って事なんでしょうね。私は其の満足の中に入って居たと思いますのよ。

       ソ連ではお子様を叱るのに

             キスして挙げなくても好いのね

が、肌の触れ合いを言うのに使われる様ですのね。今思いますのに、母は伝染を恐れて私を抱いて呉れませんでしたのね。だからと言って深い愛情は感じて居ましたのよ。其の後スリの手助けをしましたのは、ジッと私の独り立ちを見詰めて居ましたのね。

   因縁で割り切れる物では有りませんでしたの。母と娘には人様に明かせない契が有りますのね。ホントに言葉が少ない母子でしたが、言うに言われぬ何かが何時も着いて居ましたのよ。恐らく最期は理性を超えた衝動が有ったと思いますのよ。娘と夫婦とのシガラミニ挟まれましたら、とっさの行動だったと思うしか無かったのですもの。


   長屋住まいって不思議でしたのよ。何も無いのが日常でしたの。日光街道から奥まった葦の草に覆われた豚小屋でしたのね。豚も人も住まなくなってからかなりの年月は有ったと思いますのよ。

   荒川が利根の本流だった時代も有った様ですのね。大水の歳には荒川も千住を水浸しにしたのではと思いましたの。日光街道其の物も国道指定が有っても主な幹線道路から外されていた様に思いましたのよ。

        確かに数百メーター歩けば、徳川時代

        の処刑場跡の首塚をそのまま残した

        お寺さんが有りましたのよ

北千住の西口には、数軒のお店が有るだけの寂れ様でしたの。確かに南千住の操車場は使われて居ませんでしたが、母には終の棲家と成った長屋が覚悟を決めたと思いますのよ。


   確かに父の乱行は目を見張る物でしたの。其れでも母はどぶろくを買って帰るのを止めませんでしたのね。何度かはご老人のお部屋に逃げましたが、私の17年で身を持って教えて呉れて居ましたのね。夫婦の有り方では無かったのですのよ。

        女の生涯を母成りに体で教えて居まし

        たのね。ライの陽性検査は定かでは有

        りませんの。全部お調べに成って葬儀

        を終えて下さった弥太郎さんも、ライに

        関しましては一言も触れませんでした

        のよ。特効薬が有るとは言え珠樹の心

        には触れず仕舞いに成りましたのよ

人の心の傷は、母から弥太郎さんに引き継がれたように感じましたの。