「 戦争が終わる1年前に余りのチグハグに呆れて学校に行くのは止めちゃったんだ。お米の配給ったって、殆ど昭和19年の秋から無かったのさ。食べる物ってお芋とお魚だけなんだよ。其れも真昼間のお昼に、決まった様にアメリカの大型爆撃機が超低空で飛んで来るのさ。マリーに教えられたんだけど、B24って爆撃機なんだってさ。」

    「 私も覚えてるわ。お昼をチョット回った頃に両国橋と清洲橋の間から

       キーンって耳をツンザク金属音を残して

       手が届きそうな低空をアメリカの超大型

       機が飛んで来るのよ。

凄いスピードですから、鳥だって追い付けない位だったのよ。」


    「 そうなんだ。羽田を目指して来る様に、毎日昼の12時半に成ると飛んで来たのさ。日本の首都を我が物顔に飛んで来ても、高射砲を撃つでも無いし、戦闘機の影も見えないのさ。マリーに聞いたんだが、日本の新司偵って双発の偵察機が、グラマンも追い付けない猛スピードでフィリッピンの連絡に飛んで来てたんだってさ。其れを真似してB24って爆撃機の武器を全部外して、日本のレーダーの性能を調べるのに飛んで来てたんだってさ。戦闘機は全部浜松の飛行場に移して有って、高射砲も赤羽の台地の他は中国に持って行ったんだって。其れを知ってるから銚子を目指して飛んで来て、羽田から東京湾に飛んでくコースで偵察に来てたんだってさ。学校の頭の上をかすめる様に飛んで行くのに、戦闘機の影は見えないのでイヤに成っちゃって学校には行かなかったのさ。」


    「 そうだったのね。柳橋にも時々軍隊のエライ様が会合を持つのに来てたのよ。お酒とお食事と女が居るからセックスこそ無かったけど、宴会を楽しんでるのには呆れて物も云えなかったのよ。今の政府やおエライさんが言ってるのとは様違いの戦時体制だったのよ。」

    「 小学校では相変わらず朝礼で校長先生が教育勅語の朗読でしょう。カンカン照りの校庭で倒れる子が出ても誰れも援けようとはし無かったんだ。終われば校庭では退役した軍曹が木で作った銃剣で訓練でしょう。小学一年の子供だよ。教室では歴代天皇の名前を暗記させられる毎日だったのさ。もう戦争も天皇も考えるのよりは学校に行かなければって成ったのさ。横浜も川崎も夜に成ると真っ赤に燃えるのが熱い様に見えるんだよ。だから東京大空襲も花火と同じで見惚れて居たのさ。川崎の工場が毎晩爆撃されてるのを見てるだけだから、東京が燃えるのも逃げないバカが居るとしか思わなかったのさ。戦争って其う言う物だったのさ。」


    「 羽田は爆撃されなかったの?」

    「 だって何も無かったんだ。大師橋から蒲田の駅まで荒れ地しか無かったのさ。芝浦って言っても、品川の屠殺場と下水処理場しか無いでしょう。恐らく偵察が出来てたから爆弾を使うのがバカバカしかったのじゃ無いのかな。穴守稲荷の周りには、小舟で東京湾のハゼやアナゴを取る漁師しか住んで居なかったのさ。8月15日に戦争が終わったなんて誰れも知らなかったのさ。だって決まった様にアメリカの飛行機が飛んで来るのだよ。東京湾には爆撃で沈んだ船がごろごろしてたんだ。川崎の工場は思い出したように爆発して火の手が上がるでしょう。大人のヒソヒソ話では

        戦争が終わったらしい

ってのと、

        広島に新型爆弾が落された

って、噂だけだったのさ。教育勅語を朗読してた校長先生も教頭先生も、退役の軍曹さんも皆んな隠れちゃったでしょう。アッて間に、見慣れないジープと戦車が走って来て、大師橋は閉鎖されちゃったのさ。大人は川崎の工場地帯と蒲田と大森の駅に略奪に行くのだよ。子供だって付いて行けば何かが手に入るから家も学校も何もかもドウでも良かったんだ。アレが子供でも自分で生きて行く切っ掛けに成ったのさ。」


    「 其うだったのね。柳橋も似た様な物だったのよ。隅田川の水が有ったので空襲でも焼けなかったのよ。向こう岸は見事な火事だったでしょう。空襲と言っても殆どが焼夷弾なのよ。カラカラって音が消えると火の玉が降り注ぐのね。あの夜までは探照灯の光が空を走ってたのに、あの夜は高射砲の爆発も無ければ探照灯も空を照らさないのよ。300メーター位の低空を、お腹を開いた爆撃機が焼夷爆弾を木の葉の様に触らすのが見えたのよ。カラカラって小さなプロペラが回る音が止ると、火の玉が降り注ぐのよ。誰が見ても手の施しようが無いのが判るから、逃げないで死んだ人の気が知れないのよ。戦争って其の後が大変だったのよ。柳橋は将校が会席に使ってたので、お米や缶詰めなんか隠してたから助かったのよ。今思えば、天皇陛下万歳を信じてた人と、生き残るのに夢中だった人とに別れてたのね。花街って元々紛争には無関係だったから、戦争がドウのなんて考え無かったのよ。」


    「 僕は元々、何も無い家で暮らしてたのさ。だから大人に混ざって工場荒らしをしてたんだ。大森の駅には軍用貨物が停まってたけど、空に成るのはアッて間だったね。一足遅く来た人には何も手に入らなかったのさ。僕は軍用毛布を抱えて逃げたんだ。此れはお米に替えられたし、アノ冬は猛烈に寒かったんで、皆んな外套に作り直して着てたのだよ。何でも自分で手に入れて自由に暮らすしか考えなかったんだ。オヤジが足踏みのプレス機でサイダーの王冠を作り始めたのは数年後だったのさ。其れまでは母親も姉さんも蒲田の食べ物の小屋で働いてたのさ。何を遣ってたのかは知らないけど、皆の話では500円でチョイの間だって言ってたから、其れで何とか食ってたんだね。」