北海道で財を成した鳩山薫さんの共立女子高に1年通いましたのよ。

       イキナリ大学ではお前が疲れるだろう

からって、共立女子高の1年に入りましたの。飛び級で2学期は2年に成って、3学期は3年生で卒業しましたのよ。全部

       岩崎珠樹で通しましたの

    共立女子高の生徒さんは神保町を通って居た7番と35番の都電はご法度でしたので、水道橋の駅から歩いて通って居たのですのよ。珠樹はビュイックで通いましたの。正門と言っても名ばかりのお玄関に横付けなんですのよ。聖心でも同じでしたのよ。ただ共立では裏の神田川の傍に停めて居ましたのよ。


    聖心では門の前の交番の横に停めて居ましたのよ。真っ直ぐ柳橋に戻るのが習わしに成って居ましたのに、運転手さんのお嬢様と同ない歳でしたので直ぐ打ち解けて、寄り道が多くなりましたの。共立から直ぐの皇居の平川門には良く行きましたのよ。門を入って左手に馬場が有りましたの。馬場の周りの倉庫を民間に貸し出して居ましたのよ。岩崎では借りて居ませんでしたが、主に出版社が借りて居ましたのね。ですから三省堂のパスを持ってフリーに出入りして居ましたのよ。入って仕舞えば岩崎が通りましたので、随分お馬を楽しみましたのよ。お馬車を轢かせる馬ですから、長鐙でのんびり歩かせるのが楽しかったのですのよ。ホントは入るのに鑑札を貰って平川門から帰らなければ成りませんでしたのに、大手門から出て其のまま銀座に出た事も有りましたのよ。


    銀座通りには1番・19番・38番の都電が通っ

て居ましたのよ。四丁目の停留場には尾張町の掲示が有りましたの。信号も出来たばかりでしたので、点滅信号で不便を感じない時代でしたのよ。良く7丁目の資生堂パーラーでお茶にしましたのよ。7丁目の外れに一里塚の石組みが有ったのを覚えて居ますわ。その前にビュイックを停めてパーラーの二階から悪戯されない様に見張ってましたのよ。1番の都電がパーラーの前を警笛を鳴らして走り去るのを見て居ましたの。一度乗って見たいと思っては居ましたけど、運転手さんのダメ出しで果たせませんでしたのよ。7丁目の外れに名前は忘れましたが古い金物屋さんが有りましたのよ。其の両隣は空襲で焼けたビルが其のまま残って居ましたのよ。銀座も7丁目は寂びれた地域でしたのね。確か新橋の駅寄りには、ムーランルージュの真似をした風車のお飾りが有るキャバレーが有った様に覚えて居ますのよ。


    柳橋のお店は古びた板囲いのしもた屋でしたのよ。お三味線が聞こえましたので花街だと思いましたの。其の日のお泊りも有りませんでしたので、芸者にでも成ったらとしか思いませんでしたのよ。出て居したのがまさか岩崎のご当主だとは思いませんでしたの。

       運で言い切れる物では無いな。立って

       居たのがまだ子供だろう。汚れた

       ワンピースに擦り切れた運動靴だろう

シラミでも集って居たらと、高輪に連れて行ったのでしたのね。思い掛けない森の中のお屋敷でしょう。今夜泊まれるのならって、ふて腐れて居ましたのよ。其れが此んなに繋がるとは、夢にも思いませんでしたのよ。