僕の家は大師橋のたもとから羽田のお稲荷さんまでの小さな区画に、300軒ほどの貧困家族が軒を接して暮らして居たのです。羽田空港と言うとジェット機が飛び交う大飛行場だと思うでしょう。1955年―――昭和30年の羽田飛行場は進駐軍の接収が解除されてたとは言え、まともに飛べる飛行機なんか無い時代だったのです。


    羽田はアメリカ軍も使って居なかったのです。飛行機って先ず燃料が確保されて居ないと飛び立つのも出来ませんね。其れに滑走路は500メーターの一本しか無かったのです。占領直後は日本の空は完全に封鎖されて、アメリカの小さな軍用機が使って居たのです。其れが事故を起こすと滑走路は使えなく成ったのです。元々東京と千葉、神奈川には小さな飛行場が30近く有りました。GHQが置かれて居た丸の内には晴海の埋立地に―――今はアニメマーケットが開かれて居る国際展示場の土地に、小型機が着陸できる滑走路が作られて居て、GHQの連絡用に使われて居たのです。地理的にも不便な羽田は閉鎖されたままだったのです。


    僕の家は缶詰の空き缶を洗ってサイダーの王冠を古いプレス機で作って居たのです。信じられないでしょうが昭和20年代にはドリンクのガラス瓶に蓋をする王冠の鈴メッキの鉄板が無かったのです。ですから進駐軍の缶詰の空き缶でサイダーやビールの王冠を作って居たのです。古いプレス機の音と振動は凄い物でした。話し声も向こう三軒両隣では聞こえない程の凄さだったのです。苦情が出ても細々と羽田の海で漁をして暮らして居た人たちの部落ですから、何も起きなかったのです。ですから僕が家に帰らなくても探しもしませんし、お帰りも言われない家庭環境だったのです。部落の北側は六号橋の第一京浜国道まで、草ぼうぼうの原っぱだったのでした。


    大師橋の袂には進駐軍の検問所が作られて居て、わずかに羽田大師様を中心とした300人の部落民だけが通行を許されて居たのです。大師橋とは羽田の海を守って居たお稲荷さん―――つまり羽田大師様にあやかって付けられたネーミングだったのです。元々アナゴ位しか取れない羽田の海で、何とか生きて居た人たちの部落ですから、羽田大師様が唯一の目標物だったのです。大師橋から浜松町の東京港口まで進駐軍のフェンスに囲まれた芝浦だったのです。

    品川駅の海寄りには牛の屠殺場と下水の処理場しか無い、人が住む土地では無かったのです。屠殺場と下水処理場だけは外して芝浦港は進駐軍のフェンスに囲まれて居たのです。屠殺場に通う人たちは品川駅を通って通って居たのです。屠殺した牛肉は進駐軍が使うだけでしたから、運ぶのには進駐軍のトラックを使って居たのです。


    下水処理所に通うのには、第一京浜国道の品川一里塚の裏から、山手線と東海道線の下をくぐる100メーターものガードが作られて居ました。ガードと言っても人と荷車しか通れないトンネルだったのです。今も使われて居ると思いますから、試しに通って見るのも怪談じみて面白いと思いますよ。東京だけではなく、日本中探しても此れほど不気味なガードは無いでしょう。

    芝浦には人が住んで居なかったのは事実なのです。大師橋の検問所は羽田に住んで居た漁師たちだけが通れました。東京港口の検問所は、芝浦の反対側の浜松町に住んで居た少しの人だけが通行を許されて居たのです。わずかに田町の芸者さんたちだけが検問所を通れたのです。何故かと言うと、国鉄の立体線路の石垣の裏に芝浦の二業地が有ったからです。芝浦と言っても田町の海側に、芸者さんの置屋と検番が有ったなんて信じられないでしょう。実は第一京浜国道は徳川時代の東海道だったのです。ですから東海道に沿って多くの歓楽ケン売春宿が作られて居たのです。花街と言っても枕芸者さんを置く売春宿だったのです。此れを、三味線と踊りとお酒の宴会をする三業地と区別して、二業地と言って居たのです。

    聞きたくは無いでしょう。僕が家に寄り付かないで多摩川河口で暮らして居たのを理解して頂くために、昭和20年代の芝浦と羽田がドウ成って居たのかをクドクドと書いたのです。進駐軍に接収されて居れば、其のオコボレは多かったのです。時効でしょうから話しますが、トラックの落し物だけでは無かったのです。フェンスに囲まれた中とは子供には安全地帯だったのです。極東放送が聞けるラジオや、西部劇で使う牛追いの10メーターの鞭を拾ったと書きましたが、其んな物が落ちてる筈は無いでしょう。進駐軍が接収してたフェンスの中には有ったとだけ書いて置きます。同時に大人の世界を生き抜くのですから、何歳に成って居たかもご想像に任せます。其れを承知して此のフィクションを読んで頂くのに、細々とした記述を書いたのです。