1958年の国内道路状況は極めて荒れた道路が殆どだった。都内には都電がまだ都内交通の主役を担って致し、私鉄の路線も地下鉄は渋谷から浅草までの1路線しか無かった時代だった。道路の中央を走って居た都電の多くは自動車と共有して居たが道路中央に都電の停留所が現存して居たので、トラックは都電の線路内を通行しなければ走れない関係で、都電が停留場で停車して居るのを待たねばならない渋滞が各所に現れて居たのだった。


    元々東京の道路の基本は、4.5メーター幅で規制されて居たので、自動車の対面交通も制限された関係で、渋滞は当然の様に自動車交通の妨げに成って居たのだ。当時の自動車の鑑札ナンバーは5ケタの番号で統一されて居たので、国内保有の自動車の総数も99999台で規制されて居たのだよ。其れが東京の狭い道路に集中して居たので、道路の改修が自動車の増加に間に合わずに、都電が大幅に廃止され始めて居たのさ。当時のメイドインジャパンの自動車と言えば三輪トラックが主流だったのさ。乗用車はアメリカの車が殆どだったのが、輸入規制が解かれて一挙にルノー・ヒルマン・オースチン等が乗り込んで来たのさ。政府は1940年に開幕予定だった東京オリンピックを1964年―――昭和39年に開催を目して居たが、道路交通に関する限りは後進国の状態が続いて居たのだよ。


    「 10人の娘たちが集団で移動するのには、鉄道を使うのは危険すぎるのだよ。国鉄だって朝夕のラッシュは2・3時間は続いて居るし、私鉄が事故で停まるのは毎日の行事に成って居るのだよ。だからスクールバスを使うしか無いし、其れにはアメリカンスクールかインターナショナルスクールのGM社のバスを使うしか無いのだよ。」

    「 そうね。新車の購入はムリとしても、程度の好いスペア車両を手に入れましょう。」

    と、毎年買い替えて居たのさ。然し此れはインチサイズでしょう。部品の供給には何日も掛かるし、アメリカンスクールも故障に備えて倍近くのバスを確保して居たのさ。何しろバッテリーも粗悪品だったから、セルモーターが始動し無いでクランクの手動で動かさなければ成らないケースが多かったのさ。僕だって何回もエンジンの反転ケッチンを食って手首を痛めて居たのさ。


    「 仕方が無いからバッテリーのスペアを積んで置こうよ。」

    とは言っても重い24ボルトのバッテリーを、女の手で動かすのなんて出来やし無いさ。

    「 僕もマリーもオーストラリアの国際免許証を使ってるから免許の制限は受けないね。鮫洲の試験場で調べたんだが、普通免許と小型免許の二種類だけなんだ。小型免許は戦前輸入したダッジの乗用車を使ってるのさ。普通免許はGMのトラックを使ってるのだが、セルが効かないので免許を受ける人たちが交代でクランクを廻してるのさ。オリンピックで全てが変わるとは思うけど、其れまでを今の延長からはそれ程変わらないと見て、交通手段も何とかするより無いね。」


    「 参ったわね。もうスクールバスが不便だって言うのね。」

    「 違うんだよ。オリンピックが終わるまでは大きくは変わらないと思うのさ。其れまでに日本の大学を卒業するか、アメリカがイギリスで暮らすのを考えるのだね。鉄道ってのはオリンピックまではほとんど変わらないと思うんだ。だって復員して来た人たちを国鉄を初めとした鉄道各社が500万人と言われた余剰人数を受け容れて来たのさ。だから施設が変わるのはオリンピックにお金を掛けなく成ってからなんだよ。都内の道路は都電のレールと停留所が邪魔に成ってるから、少しずつ都電は無くなると思うんだ。其れに小型乗用車の輸入が始まったでしょう。先ず自動車の小型化から道路事情は変わると思うのさ。自動車交通は、日本の狭い道路に併せて小型車しか輸入し無いでしょう。バスやトラックもアメリカの大型しか入って来ないと見て居るのさ。ホントは中型が欲しいんだけど、アメリカ製の大型バスを手に入れるしかないと思うのさ。」


    結局マリーと相談したのさ。オリンピックが終わるまでは鉄道も道路も変わらないとね。ホント15人乗りの中型バスが欲しかったんだ。

    「 無い物ねだりをしても仕方が無いでしょう。おニューのバスを手に入れるのを考えましょう。」

    マリーの提案でオーストラリア大使館のバスを譲って貰う交渉をしたのさ。何とか大使館ナンバーを付けたバスを手に入れたんだ。今までのインターナショナルスクールのバスはYナンバーだったけど、今度は大威張りで僕とマリーのオーストラリアの国際免許証が使えたんだ。

    「 此れで行こうよ。麻布のオーストラリア大使館には毎年5台のバスを入れ替える交渉をしてるのさ。オリンピックが終わるまでの契約でね。大使も言ってたよ。オリンピックで日本も変わるんじゃ無いかとね。其の先は考えない事にして、娘たちの其れまでを作って行けば好いのだよ。」

     何とも不確実不安定な6年が始まったのさ。日本全体がオリンピック一色で踊って居たが、其れを上手に利用して乗り切る事を考え始めたのさ。マリーと僕のタッグでね。