昭和30年は向こう柳原で迎えました。多摩川河岸で川崎競馬の競走馬を泳がせて居たのは其の5年前だったのです。5才か6才の時代でしたが、川崎競馬の暗部に加担していた時代だったのです。信じられ無いとは思いますが、当時の川崎競馬は日本のカジノの変形だったのです。政府の建前は、庶民に娯楽を提供すると成って居ました。アメリカ軍は日本を占領した勝利の軍隊を掲げて居ましたので、日本政府はアメリカの統治を補助する立場でかろうじて形を保って居た時代だったのです。例えば日本の食糧事情を援護する名目で脱脂粉乳の提供を受けて居ました。小学校の児童の給食に供与されて居ましたが、昨年1950年にアメリカ政府は其の支払いを要求して来たのです。日本政府は当時の提供文書を提示しましたが、其の全ては破棄されて支払いの要求には従わざるを得なかったのです。本来アメリカでは、家畜の飼料と成る脱脂粉乳だったのです。其れを突如食料として支払いを要求されても、日本は従うしか無かったのです。日本国家の立場はアメリカに敗北した国なのですから、世界の常識としては賠償の責任を負わねば成りませんでした。ソビエト連邦も急遽日本に参戦して、千島・樺太の奪還を果たしたのです。其れだけでは過去の植民地を返還したに過ぎませんでしたので、関東軍をシベリヤの使役に確保したのです。アメリカは日本に要求する賠償が有りませんでしたので、植民地政策で占領を続けたのです。従いまして日本政府の上にGHO成る占領軍が居たのです。


    川崎競馬は娯楽施設としての設置を願い出たのですが、反面カジノの要素も取り入れて、GHQを説得したのです。ですから賭博の要素がすべての面で表に出て居たのです。ですから場内に賭けを請け負う業者も認められて居ましたし、ノミ行為も公然と行われて居たのです。表面上はサラブレットのレースに成って居ましたが、其れよりも賭けその物を正当化する競争が組まれて居たのです。其れは日本政府の介入以前に、アメリカの意向が全てを支配して居ました。此の遣り方で巧妙な組織が続いて居たのです。勿論競馬に続いてボートレースや自転車競技が始まりましたが、其の管轄はGHQから離れて居たのです。従いまして暴力団が介入したのは当然の帰着だったのです。川崎競馬に限ったのでは有りませんでした。全国の地方競馬は勿論の事、中央競馬にもGHQの監視の目が光って居たのです。従いまして競馬には暴力団関係者が立ち入る事は出来なかったのです。


    その代わりに、公然と賭けが認められて居て、競馬場の中に賭けを請け負うノミ屋の存在が有ったのです。競馬場に足を運ばなくて電話で賭けを請ける業者が居たのも事実だったのです。当然ながらレースその物も賭け業者が組み立てて、その利益は膨大だったのです。判りますか ? 占領軍の保護の元で、レッキとした賭け行為が行われて居たのです。勿論日本政府も手が出せませんでしたし、暴力団も競馬に介入するのはGHQを相手にするのに繋がりますから手を出さなかったのです。レースを組み立てると言うのは、賭けの胴元を引き受けるのと同じに成るのです。此の利益は莫大な金額でしたし、6・7才の子供が馬の調子の全てを握って居たのでした。当然ながら賭けの比率を組み立てるのにも参加して居たのです。ですから多摩川河岸を立ち退いた時には、20億を超える裏銀行の預金を持って居たのです。川崎競馬に隣接して作られた川崎競輪場は、やくざと地回りの手に握られて居て、殺傷事件は絶えなかったのです。其れに引き換え川崎競馬には進駐軍のウエポンジープが睨みを利かせて居ましたので、平穏無事な賭けのメッカに成って居たのです。


    昭和30年に多摩川から逃げ出したのは、GHQが立ち去った後を日本政府が引き受けたからだったのです。当然ながら暴力団がこぞって介入して来ました。胴元に資料を提供して居た僕は手を引けませんでした。其れが行方をくらました理由だったのです。当時の裏の事情をご存じ無い皆様方には想像も付かない事だとは思います。アメリカの占領軍がオールマイティーのキングだったのはお忘れの方が殆どでしょう。川崎競馬は占領軍の介入が僕には絶対の有利に働いて居たのです。先に述べた脱脂粉乳の件と照らし合わせて見ても、アメリカのドルの国柄は昔も今も変わって居ないのです。機関銃を剝き出しにした一両のウェポンジープが、占領軍の象徴だったのです。競馬場の正面に停車しているだけで、僕たちノミ屋は守られて居たのです。


    大師橋の下に小屋を作って住んで居ました。冬は其れでも何とか成りましたが、夏の蚊柱には参ったのです。河岸を逃げ出して海岸沿いに移動しました。馬の調教は朝の内に終わります。遣る事が有りませんでしたので、ラジオ放送を聞いて居たのです。今のNHK―――当時の日本放送協会の外国語放送を聞いて居ました。多摩川河岸では短波放送が良く聞こえたのです。フランス語もドイツ語も聞きかじりで覚えました。一番興味を引いたのは、進駐軍の放送―――ラジオ極東でした。ニューズ番組は叩きつける様なアメリカンでしたが、娯楽番組に成ると徹底的に崩したアメリカンに成るのです。意味が判らなくても聞くのが外国語を覚える近道だったのです。其れしか遣る事が有りませんでしたので、2年も聞いて居る内に殆どマスターして仕舞いました。此れが後に大事件に成ったのですが、其れは置いて多摩川河岸の暮らしを云いましょう。