七月七日で、昭和十二年の廬溝橋事件から七十七年が経過した。七十七年前の七月七日から日華事変が始まる。
 何故、戦争ではなく事変なのか。その訳は、日本軍が戦う相手が、国家ではなく、国民党の軍隊、共産党の軍隊そして軍閥や共産パルチザンや匪賊だったからだ。
 つまり、その時の大陸の情況は、内乱状態だったのである。
 丁度、クルト人の軍やイスラムシーア派の軍やイスラム過激派の軍などが入り乱れる今のイラクに、アメリカ軍地上部隊が邦人保護や石油地帯の施設保護の為に入った情況だと思えばよい。

 そこで、七十七年前、
 支那におけるこの情況から、戦争を起こし、戦争から共産革命に持ち込む戦略を実践した組織があった。
 それは、スターリンが指導するコミンテルンと、
 毛沢東が指導する中国共産党である。
 コミンテルンは、各国共産党に、「内乱から、戦争へ、戦争から革命へ」という闘争方針を指令し、毛沢東は、「政権は銃口から生まれる」という方針を実践しようとしていた。
 そして、コミンテルンも毛沢東・中国共産党も、その「戦争」の相手を日本に絞ったのである。
 
 この引き金が、廬溝橋事件である。
 その概要は次の通り。
 


以下、西村眞悟HP内「眞悟の時事通信」にて。
http://www.n-shingo.com/cgibin/msgboard/msgboard.cgi?page=988