三月十九日、硫黄島擂鉢山近くのアメリカ海兵隊上陸開始地点を見下ろす丘で、硫黄島の闘いで戦死した二万八千七百四十六人の日米両軍将兵の日米合同の慰霊追悼顕彰式に出席した。
 三度目の硫黄島訪問である。

 硫黄島は、東京から南に約1280キロメートルの海上にある南北8・3、東西4・5キロ、面積約22平方キロ(東京都品川区と同じ)の亜熱帯の火山島で、地熱が高く至るところで硫黄を発散していて地殻変動が激しく河川や地下水は全くなく人間が生きる為には雨水だけが頼りの島である。
 硫黄島は、西方約1380キロ地点に沖縄本島、南に同じく約1380キロの地点にグアムがあり、最も近い小笠原諸島父島とも約270キロ離れている絶海の孤島である。

 そして硫黄島は、大東亜戦争末期、アメリカ軍が、サイパンやグアムからB29爆撃機による首都東京を初めとする本土空襲を敢行するにはどうしても手に入れなければならない島であり、日本軍が、アメリカ軍の本土空襲を阻止するためには、どうしても死守する必要がある島であった。

 昭和十九年、この硫黄島を死守するために島に着任した帝国陸軍小笠原兵団長の栗林忠道中将は、地下陣地に立て籠もって地上のアメリカ軍を迎え撃つ作戦を立て、洞窟式交通路構築計画を下令して島に全長十八キロの地下壕を構築して二万二千余名の将兵を地下壕に入れアメリカ軍の上陸を待ちかまえた。
 

以下、西村眞悟HP内「眞悟の時事通信」にて。
http://www.n-shingo.com/cgibin/msgboard/msgboard.cgi?page=952