八月末日までの三日間、台湾を訪れた。
 訪台の切っ掛けは、戦前をよく知る「台湾の日本人」の方々が、次のような思いから私に台湾に来いと言ってくれたからである。
 
 その思いとは、
 「韓国による訳の分からんアメリカを巻き込んだ「従軍慰安婦狂想曲」で、正論を述べて韓国の悪質な虚偽の反日宣伝と闘おうと主張している西村を、「日本の反日本人」が非難している。
 もう黙っていられない。
 西村を台湾に呼んで、慰安婦のことを教えてやろう。」
ということだ。
 
 戦前を知る「台湾の日本人」とは、大正の末から昭和一桁生まれの方々である。つまり、八十歳半ばから後半の方々だ。
 彼らは、南の台湾から日本を見ていて、「日本の日本人」が、中共や韓国の歴史捏造による日本非難に対して断固として闘わないのが歯がゆくて悔しくて仕方がない。
  ありがとうございます、必ず行きます、と返事した。

 そして、二十九日、皆さんとお会いして昼前から夜遅くまでお話を聞いた。

 会談に関しては、大正末年と昭和初年生まれの男性二人と昭和三年と七年生まれの女性二人のお話をご紹介する。
(男性)
 そもそも「慰安婦」などという言葉は当時はなかった。
 河野のやつ(官房長官)が、従軍を言い始めた。
 本当に辛酸を味わったのは、日本の「からゆきさん」ですよ。
 大和民族のプライドですから頑張ってください。
 西村さん、大仕事ですよ。

(男性)
 台南に新町があった。僕ら中卒の給料は月四十円ほどで、新町の売春婦の給料は月二百円で、一カ年の前借りができた。
 売春婦が、戦地に行くとなったら、見方が変わる。朝鮮ピーといえば叱られる。戦地の兵隊さんの相手をするのだから、普通の売春婦とは格が違うんです。
 彼女たちは、尊敬され、出征軍人と同じような旗で送られ出発していった。

(女性)
 日本が悪かったと言って金をもらう運動があった。日本人は負けた負けたと卑屈すぎるからだ。
 私は、父が医者で夫も医者です。それで以前、韓国で医学集会があって、夫と共に出席したことがある。
 私は、韓国も日本語が通じるので日本語で話し続けた。韓国側は日本語を使わなかった。
 すると、韓国側の幹部の奥さんが私を別室に呼んで、「何故、日本語を使うのか」と詰問するのです。
 私は、何故、「日本語を使わないのか。あの時の誇りを忘れたのですか」と逆に言った。
 翌日、その奥さんは、私より流暢な日本語を話していた。
 どうして日本は、台湾を手放したのですか。この点、恨みに思っています。

(女性)
 大東亜戦争がなかったら、東洋人は今でも白人の奴隷にされていた。
 日本には、広島と長崎に原爆が落とされた。
 台湾には、蒋介石という原爆が落とされた。

 出席した台湾の方々は、黙って発言の時を待っていたが、発言を始めると声が大きくなり堂々と話し続けられた。
 それは、日本人であった時の思い出と日本への思いだ。
 その日本は外にあるのではなく、心の内にある日本だった。
 声が大きくなるのは、その「内なる日本」と現在の「外の日本」とのギャップが悔しいからだった。
 話を聞いていて、日本は、彼らの「内なる日本」に回帰しなければならない、それが即ち「日本の再興」だと思った。

  以上の通り、
 この度、台湾の人々が私に語ってくれたのは、我々が忘れていた「古き良き日本」であり「誇りある強い日本」であった。
 
  台湾と日本、両国の連携と東亞の共栄を実現せんと心に誓う。