本年も、八月二十五日午前、御殿場の演習場で行われた富士総合火力演習を見学した。
 天候は小雨のち曇り、霧が演習場をおおい、三キロ前方の砲の着弾地点は見えなかった。演習場は連日の雨でぬかるんでいた。
 
 我々の前の、小雨とぬかるみの大地のなかで演習を行った多数の陸上自衛隊隊員諸君の高い士気と練度に敬意を表し感謝する。

 さて、一点だけ書く。
 これは、演習をした自衛隊員諸君のことではなく、政治のことである。政治が、自衛隊員の士気を汚している。
 
 何故、演習場に国旗「日の丸」を掲げないのか。

 昨年の火力演習で、演習場に「日の丸」が一つもないのを見渡して愕然とした。
 民主党政権による日本のプレゼンス・国家のプレゼンスを無くすという反日思想による自衛隊への「統制」が効を奏していると思ったからだ。
 従って、安倍政権になれば演習場に「日の丸」が掲げられていると当然思っていた。
 しかし、安倍政権になっても、演習所場に「日の丸」はなかった。
 「日本を取り戻す」という標語を掲げた安倍政権は、
標語通り、演習場に「日の丸」を取り戻すべきではなかったか。

 自衛隊員は、我々の前で金のかかった「コンバットゲーム」をするために訓練を続けてきたのではない。
 
 自衛隊員は、
「事に臨んでは、危険を顧みず、身を以て職務の遂行に努め、以て国民の負託に応える」
という宣誓をおこなって訓練に励んできた。
 その「国民の負託」とは、
 「国防」だ。「日本を守る」ことだ。
 自衛隊員は、危険を顧みず、国防を果たすと宣誓している。
 また「危険を顧みず」とは、「命の危険をものともせず」ということだ。
 
 つまり、自衛隊員は、命の危険を顧みず日本防衛の任務を果たす、と宣誓して日頃の訓練を重ねてきた。
 自衛隊員は、「事に臨んでは」、即ちいざというときには、「日の丸」の旗の下で戦う為に訓練をしてきた。
 そして、その訓練の成果を、国防を負託した国民に展示する。
 これが総合火力演習の意義である。
 従って、「日の丸」が演習場に掲げられねばならない。
 
 しかるに、本年も、演習場に一つの「日の丸」もなかった。
 これ、民主党政権の時に「日の丸」がなかったこと以上に、国民の落胆をさそう空白ではないか。
 政治が、「日本を取り戻す」どころか、
 そもそも政治の中から「日本が無くなっている」

 このように、「国」という意識が欠落して「日の丸」を掲げる発想がない政治のもとで、国を守るための訓練を泥まみれになって続行している自衛隊員に「すまん」と謝りたい。同時に、
 にもかかわらず、高い士気と頼もしい練度を維持している自衛隊に敬意を表し感謝する。

 とはいえ、このような政治が、
 中共の南京大虐殺の捏造、
 韓国の従軍慰安婦強制連行の捏造、そして、
 国連事務総長の中韓の捏造への迎合に対して、
 直ちに烈火の如く反撃を加え、
 国の名誉を守ることができようか。
 政治は、戦うことができない。

 自衛隊員は、命に代えて国を守り国民の負託に応える、と宣誓して訓練を続けている。
 国会議員も、「日の丸」に正対して同じ宣誓をする者だけが国会議員になるべきである。「日の丸」に正対できない者には国会議員の資格を与えてはならない。
 
 特に、総理大臣と閣僚は、天皇陛下の前で、
「事に臨んでは、危険を顧みず、身を以て職務の遂行に努め、以て国民の負託に応える」との宣誓をしてから職に就くべきだ。