マスコミは、八月十五日前には、戦争の特集をして悲惨さを強調し、八月十五日当日は、総理や閣僚が靖国神社に参拝するかに感心を集中させて報道して、中共や韓国朝鮮の「言い分」に従うか反するかを解説して、靖国神社参拝が「国際問題」であるかのように位置付ける。マスコミは、中共や韓国朝鮮の意向に迎合することが「良心的」であるかのように日本国民に思わせたいかのようである。
 ところが、八月十五日を過ぎれば、戦争のことは全く報道しない。マスコミは、まるで、八月十五日を中韓主役の反日イベントの日、日本の歴史糾弾の日と位置づけているかのようである。

 八月十五日を過ぎても、喉元過ぎれば暑さ忘れるの言葉通り忘れてはならないことがある。
 それは、民族の叙事詩の如き悲惨そして痛恨の動乱期の歩みのなかに顕れた、誠、潔よさ、同胞愛、士魂そして武士道である。

 昭和二十年の本日、樺太の真岡郵便局の九名の十七歳から二十四歳の乙女達が、
「みなさん、これが最後です、さよなら、さよなら」
との電信を本土に送ってから、服装が乱れないように足を自ら縛り、青酸カリによって自決した日である。
 ソビエト軍は、この日、突如、真岡の民間人を狙って艦砲射撃を開始し、その後上陸してきた。
 九名の乙女達は、最後まで郵便局にとどまり、この緊急事態における電信業務を続けてソ連兵突入直前に自決した。

  昭和天皇御製
   樺太に 命を捨てし たおやめの 
           心思えば 胸せまりくる

 そして、同じこの日、千島最北端の占守島では、日本軍守備隊とソ連軍の戦いが終結した。
 ソビエト軍は、八月十八日、突如占守島に艦砲射撃を開始してから上陸してきた。八月十五日の玉音放送によって占守島守備隊は武装解除を始めていたが、司令官はソ連軍への反撃を決断して下命する。そして、戦車部隊は取り外していた砲塔を再び取り付けてソ連軍に向かって前進を開始した。
 日本軍の攻撃はすさまじく、ソ連軍上陸部隊は多数の戦死者を放置しながら海岸線に追い詰められた。守備隊指揮官が総攻撃を命ずれば、ソ連軍は殲滅されたであろう。
 しかし、指揮官は決断する。ソ連軍を殲滅せずに八月十五日に示された天皇陛下の勅語に従うと。この決定によって、勝っていた日本軍が負けて崩壊寸前のソ連軍上陸部隊に降伏した。
 この日が、昭和二十年八月二十一日である。
 スターリンは、小さな占守島の戦いにおけるソ連軍戦死者の数が、全満州における戦死者の数を遙かに上まわっていることに愕然とした。
 そして、勝っているのに降伏してソ連兵の命を救った守備隊の将兵達は、ソ連当局によって、シベリアの一番苛酷な収容所に送られた。卑劣な露助めー!と叫びたくなるではないか。

 
 以上、八月十五日が過ぎても、マスコミのようにケロッと忘れてはならない。
 八月十五日を境に、日本の歴史が戦前と戦後に切断されたのではない。切断されたと思っているからケロッと忘れるのだ。
 大東亜戦争のなかで戦い亡くなっていった人々は切断された向こうの世界の人々ではない。我々と同じ血をもつ日本人だ。