六月三十日は、堺の泉ヶ丘センタービルで私と参議院議員の中山恭子先生の国政報告集会をさせていただいた。
中山恭子先生は、十二年前、
中央アジアでイスラム過激派に監禁され人質となった日本人鉱山技術者四名を含む七名の救出のために、
過激派の本拠に乗り込んで銃を突きつけられるなかで頭目と直接交渉し、ついに七人を救出した
駐ウズベキスタン特命全権大使は中山恭子先生であった。
その時の外務省の訓電は、キルギス政府に全ての交渉を委ねよ、であったが、中山大使は、その訓電通りすれば、人質の命は危ないと判断し、命をかけて身に寸鉄を帯びず自ら虎の穴に乗り込んだのだ。
十年前の十月、
北朝鮮に拉致されて長年抑留されていた五名の被害者が帰国した。五人を平壌に迎えに行ったのが中山先生であった。
その時、驚くべきことに外務省は、帰国できた五人を一週間から十日後には、北朝鮮に送り返すという約束をしていた。
我々拉致議連幹部は、外務省の五人を送り返すという方針に反対だと言った。外務省幹部は唇を振るわせて「国家間の約束だから送り返さねばなりません」と我々に言った。
その時、政府側から優しい声で一人の女性が言った。
「我が国は、国家として帰国した五人を北朝鮮に返さない。これでいいですね。」
振り向けば、これを言ったのが中山恭子先生だった。
そして、彼女は言うだけではなく、たった一人で頑として国民を守るという信念を貫き通し、五人は送り返されずに祖国に留まることができたのだ。
この時の情景を私は忘れ得ない。
翌七月一日、私は沖縄に行き、講演すると同時に中山恭子先生のお願いをした。
七月一日の午後、普天間基地にてオスプレイが離陸するところを見学した。そして、浦添市のホールで、
「誇りを持て!沖縄県民は英雄の子孫だ!」
という演題で講演させていただいた。
人は、死を覚悟したとき真実を言う。
自決前の大田実海軍少将の決別電こそ、沖縄戦の実相を伝えている。
そして鉄の暴風と言われるすさまじい敵の攻撃の中での沖縄県民の姿を語り、最後に、
「糧食六月一杯を支えるのみなりという、
沖縄県民斯く戦へり、県民に対して後世特別の御高配を賜らんことを」
と結ぶ。
この大田少将の電文にある沖縄県民の姿は、決して逃げまどう「被害者」ではなく、男女を問はず、戦士であり勇士であった。屈辱の生よりも栄光の死を選んだ人々であった。さらに状況に決してへこたれる人々ではなく、困難な状況の中で、「黙々として雨中を移動する」人々であった。
私は、この大田少将の決別電を演壇で朗読し、
そして、この沖縄県民の姿は、我々が目の当たりに見た世界に感銘を与えた二年前の東日本大震災における被災した東北の人々の「黙々として秩序と思いやりを失わず苦難に耐える姿」と同じだと述べた。
六十八年前の沖縄と二年前の東北は、ともに巨大な苦難に襲われたが、その中で、同じ日本人の血に根ざす姿が顕れていたのだ。
この我ら日本民族の力の源泉である沖縄が、今再び既に戦場になっている。
それは、自虐史観と中国共産党の仕掛けるプロパガンダの戦場である。そして、中国共産党は、この宣伝戦で勝利して沖縄を呑み込もうとしている。
沖縄を守り抜くには、即ち、全日本を守り抜くには、
今、この戦場で勝たねばならない。
つまり、自虐史観を払拭し、誇りある民族の叙事詩である沖縄戦と大東亜戦争の大義を取り戻さねばならない。
中山恭子先生は、十二年前、
中央アジアでイスラム過激派に監禁され人質となった日本人鉱山技術者四名を含む七名の救出のために、
過激派の本拠に乗り込んで銃を突きつけられるなかで頭目と直接交渉し、ついに七人を救出した
駐ウズベキスタン特命全権大使は中山恭子先生であった。
その時の外務省の訓電は、キルギス政府に全ての交渉を委ねよ、であったが、中山大使は、その訓電通りすれば、人質の命は危ないと判断し、命をかけて身に寸鉄を帯びず自ら虎の穴に乗り込んだのだ。
十年前の十月、
北朝鮮に拉致されて長年抑留されていた五名の被害者が帰国した。五人を平壌に迎えに行ったのが中山先生であった。
その時、驚くべきことに外務省は、帰国できた五人を一週間から十日後には、北朝鮮に送り返すという約束をしていた。
我々拉致議連幹部は、外務省の五人を送り返すという方針に反対だと言った。外務省幹部は唇を振るわせて「国家間の約束だから送り返さねばなりません」と我々に言った。
その時、政府側から優しい声で一人の女性が言った。
「我が国は、国家として帰国した五人を北朝鮮に返さない。これでいいですね。」
振り向けば、これを言ったのが中山恭子先生だった。
そして、彼女は言うだけではなく、たった一人で頑として国民を守るという信念を貫き通し、五人は送り返されずに祖国に留まることができたのだ。
この時の情景を私は忘れ得ない。
翌七月一日、私は沖縄に行き、講演すると同時に中山恭子先生のお願いをした。
七月一日の午後、普天間基地にてオスプレイが離陸するところを見学した。そして、浦添市のホールで、
「誇りを持て!沖縄県民は英雄の子孫だ!」
という演題で講演させていただいた。
人は、死を覚悟したとき真実を言う。
自決前の大田実海軍少将の決別電こそ、沖縄戦の実相を伝えている。
そして鉄の暴風と言われるすさまじい敵の攻撃の中での沖縄県民の姿を語り、最後に、
「糧食六月一杯を支えるのみなりという、
沖縄県民斯く戦へり、県民に対して後世特別の御高配を賜らんことを」
と結ぶ。
この大田少将の電文にある沖縄県民の姿は、決して逃げまどう「被害者」ではなく、男女を問はず、戦士であり勇士であった。屈辱の生よりも栄光の死を選んだ人々であった。さらに状況に決してへこたれる人々ではなく、困難な状況の中で、「黙々として雨中を移動する」人々であった。
私は、この大田少将の決別電を演壇で朗読し、
そして、この沖縄県民の姿は、我々が目の当たりに見た世界に感銘を与えた二年前の東日本大震災における被災した東北の人々の「黙々として秩序と思いやりを失わず苦難に耐える姿」と同じだと述べた。
六十八年前の沖縄と二年前の東北は、ともに巨大な苦難に襲われたが、その中で、同じ日本人の血に根ざす姿が顕れていたのだ。
この我ら日本民族の力の源泉である沖縄が、今再び既に戦場になっている。
それは、自虐史観と中国共産党の仕掛けるプロパガンダの戦場である。そして、中国共産党は、この宣伝戦で勝利して沖縄を呑み込もうとしている。
沖縄を守り抜くには、即ち、全日本を守り抜くには、
今、この戦場で勝たねばならない。
つまり、自虐史観を払拭し、誇りある民族の叙事詩である沖縄戦と大東亜戦争の大義を取り戻さねばならない。