ご無沙汰しております。

何年ぶりだろう…。

 

飽きっぽい私のこと。

仕事、日記、家計簿…ことごとく続かない。

ブログも然り。


でも、こんな私でも続けられることがある。

ひとつは、動物達との生活。

(我が家には、犬2匹、猫3匹が共存している。)

そして、もうひとつ…自分に向き合うこと。



ある時、同僚が箱庭療法というものに誘ってくれた。私の心がものすごく病んでいるように見えたらしい。

うん。実際に病んでいた。

周りは敵ばかりだと感じていたし、死んでもいいと思っていたから。


あれから、11 〜12年。

私は、今でも、その箱庭療法に通っている。もちろん、箱庭療法はセラピーのうちの一つで、他にもいろんなワークをしてもらっている。

中には、グループセッションもある。


セラピストさんとグループセッションのお仲間さん。

私のかけがえのないソウルメイト。

そんなソウルメイト達との人生のマラソンが、荒みきっていた私の心をいきいきとした緑溢れる自然に戻してくれた。


久しぶりの投稿は、昨日行われたグループセッションで、またひとつ開かれた幸せの扉の先の出来事から。




私の夢はムツゴロウさんになること。

この世界のあらゆる存在と魂で繋がりたい。

だから、動物が酷い状況にあると心が押し潰されそうになる。

ちょっとしたことでもそんなになるものだから、生きづらいのなんの。

アルクトゥルス星人だから、これは仕方のないことだと自分に言い聞かせた。

でも、所詮言い聞かせ。

心は騙せない。


セラピーのときも、毎回、そんな出来事をシェアして、号泣している。



そんなに泣くんじゃないよ。

しんどくてたまらんよ…。



昨日のグループセッションでのこと。

ようやく、ようやく、その苦痛の根っこが掴めた!


うしろめたさ…



私は、ありとあらゆる存在と魂で繋がりたいと望んでいながら、その根っこに、それらと繋がることへのうしろめたさも同時に持っていたようだ。


15年くらい前になるのかな?

職場の周りを徘徊している白い和犬を見た。首輪付いてない。

でも、とても人懐こい。

同僚が玄関先でおやつをあげた。

私も付いて行ったけど、いたたまれなくてすぐに部屋に戻った。


ミーティングが終わり、社用車に向かったときだ。

えっ⁉さっきの白犬が私の足元で笑ってる?

いや、嘘だろ!

私にどうしろと言うんだよ。


そのとき、後からやってきた同僚たちがこう言った。

「連れて帰ったら?仕事、代わりに行ってあげるよ。」


今でも、こんなことあるんか?って思うけど、ほんとに仕事代わってもらって、その白犬を速攻車に乗せて、自宅に連れて行ったんだよね。


その日から「シロ」と呼ばれることになったその白犬は、私が抱えても怯えることなく、車の後部座席の下に丸まり大人しくしていた。


私には、夫が一人いる。(この日本では一人やろね)

彼に電話で犬を連れて帰ったと伝えたのだろう。(記憶がないが)

彼は、帰宅してすぐにベランダに保護しているその白犬を見に行った。

そして一言。


「大きいやないか!いかん!もとの所に返してこい!」


捨て犬=子犬


という観念が、彼にはあったんだろう。

そう、白犬はすでに大人だった。

だから、彼の許容範囲を超えていたらしい。


私は、返すはずない。

彼の言葉を思い切りスルーして、白犬はそれから約10年、同居犬となったのだ。


前置きが長くなった。

その時のエピソードを、昨日のセッションでワークしてもらった。


夫との空椅子のワークで当時の状況を再現する。(空椅子のワークとは、2つの椅子を置いて、向き合う相手を想定し、一人二役で言いたいことを言い合っていくワーク)


彼には、申し訳ないという思いと、ありがたいという思いがある。そして、その許容心に頭が上がらないと思っている。

でも、素直に頭を下げられない。


私は、斜め後ろを向きながら頭を下げ、どうしてもありがとうと言えなかった。

喉が、顎がその言葉が出るのを食い止める。


この抵抗がどこから来るのか。


うしろめたさ…だった。



反対している彼の言葉をスルーして、シロを同居させた。


うしろめたい。



空椅子に座っている彼の言葉。

「誰かがするだろう。お前がする必要ない」「何なら、捨てた奴が悪い」



私は言い返す。

「これは私の魂の使命だ!」

「これは、私の義務だ!」



「お前は頑固だ」「(なぜそこまでして白犬を保護するのか)意味分からん」




そう、私は頑固だ。



子供の頃、よく両親が喧嘩していた。

母は頑固だった。

頑固者は嫌われると知った。

そうならないと決めた。



でも、私は頑固だ。

やっぱり頑固だ。


こんな自分、うしろめたい。

うしろめたいが故に、彼と互角に戦うために、ひがみが出てくる。怒りが出てくる。

そうでもしないと負ける。


でも、斜め後ろを見ながら、頭を下げ、喉、顎の痛みに耐えるのは辛い。

どうすればいい。

どうすれば、本来の愛の周波数の領域に戻れるのか?

戻りたい!

愛の周波数の領域で、シロを温かく迎えたい!

どうすればいい!?



ここで、

セラピストさんがひと言。




「素直に感謝していい」

「お前は頑固だという彼は、この瞬間、もうシロを迎えることに同意している」

「彼はとても許容心が大きい」




ハッ!

そうだ。彼は、いつも私を赦し、助け、寄り添ってくれている。

私のかけがえのないソウルメイト。



私は、空椅子で向かい合っている彼に握手を求め、素直に頭を下げた。

ありがとう。




ここで、ワークは終わった。


そして、現実が変わった。



この日の夜。

同居猫のチャコ(13歳女子)がひな鳥を連れて帰った。

すでに死んでいる。

首がねじまがり、足が取れ‥

酷たらしい姿だった。



でも、その亡骸を見た私は、心が押し潰されなかった。

その亡骸を拾い上げ、猫に見つからないところに寝かし、明日、丁重に葬ることにした。


(このあと、さらにもう一羽被害者が出るのだが)



私は、埋葬しようと思ったが、ふと、よく行くダムの遊歩道で見た光景を思い出した。


道端に何やら黒い塊が。

近づいて見ると、何かの亡骸に叢がるたくさんの虫だった。

一瞬たじろぐ私だったが、これが自然な姿なんだと感じた。


明日、2羽の亡骸も自然に還してこよう。

(賛否両論あるだろうけど、土に埋葬するのは、もしかすると、死を受け入れられない人間が、亡骸を見えないように…そこから目を逸らすための手段だったのかもしれない。)




結論、うしろめたさを受け入れた私は、ずっと逃げてきた"死はどうにもならないもの"という観念から解き放たれ、死を受け入れられた。

酷たらしい姿を受け入れた。

例え酷たらしい姿であっても、それは自分の魂が受け入れてこの世界にやってきているのだ。


もう、心は押し潰されない。


そして、そこに費やしてきたエネルギーを、全ての存在に光として向ける。






読んでくださって、ありがとうございます。