20代のときも、30代のときも、

周囲の友人に聞いていました。

 

「なんでみんな結婚したいと思うのだろう?」

 

私の質問を聞くと、

「結婚したっていいじゃない!」

「結婚したら悪いのかよ!」

と反論のような言葉が返ってきて、私はびっくり。

 

「いやべつに私は結婚反対論者ではなくて、

純粋に知りたいから聞いているの。

何をもとめて人は結婚するのだろう?

結婚制度がこんなに長いこと続いているのはなんでなの?」

 

そのころから20~30年たって、世間はようやくそのころの私に追い付いてきたようで(笑)

結婚しなくていい、と思う人がどんどん増えているようです。

特に男の人は「結婚したって損するだけじゃん」と思う人が増えているとかいないとか・・・。

 

だけど私は結婚してよかった。

結婚ほどありがたいものはない。

地球の民よ、もっと結婚しなさい。

そうしたら地球はもっと幸せになります。

 

私が結婚したのは45歳になってから。

夫に、「まさかこんな年とっている人と結婚するとは思ってなかったでしょ?」

と自虐的な質問をすると、正直者のおっとは、

 

「うん」

 

と明るく答えました。

私は夫に出会って、その出会いを永続するために結婚したのではなく、

結婚という永続する関係を結べる相手を探して、夫に出会いました。

 

愛はあとから生まれてきたものでして、

最初に愛ありきではなかった。

 

結婚しよう、と思ったときに、夫に愛を感じていたかと聞かれると、

出会いから3時間で結婚を決めたし、

愛・・・・・? あったかなあ? 

 

というかんじです。

 

確実にあったのは、

死ぬまで一緒にいたいのは、この人だ

という気持ちでした。

この人といたら、人生は楽しくなる、という確信がなぜかあった。

 

 

楽しくなることがそんなに大事なこと?

とそのときの自分に聞きたいくらいですが、

45歳まで自分が経験してきたことは、

仕事の充実感や、恋愛の楽しさや、お金を使ってできるアレコレの愉しみや快楽、アートや音楽や本などの趣味が合うゆえの愛する人たちとの対話の楽しみ・・・

 

もう十分じゃない? と思うかもしれませんが、

ぽこっ、とひとつ欠けているものがある。

何かというと、

笑う時間。子供のように無邪気に明るい時間。

それが少ない。

 

私の過ごした人生は、ものごころついてからずっと、目的志向。

 

6歳くらいから文章を書く人になりたいと思い、

14歳から編集者になりたいと思い、

「なりたい」「したい」がいつもあって、その標的めがけて突っ走る。

そういう人生。

 

「えみはいつもやりたいことを実現してきて、外国に行ったと思ったら、今度は田舎暮らし。最高の人生よね」

と小学生からの友人に言われたことがありました。東京を離れる間際に。

そんなことはありません。

 

で。

してないのは、目的よりも、「楽しい」「笑える」が優先の生き方。

 

おっとは、

「あなたは究極的には何がしたい?」と出会ってまもないころに聞いたら、

「生きてること。生きてることがしたい」とまじめに答えました。

私と逆で、今日が楽しくて笑ってるならその人生はOK、と思う人。

ああ、いいですね。こういう人、すてき。

私は思いました。

 

 

彼と結婚してからこのかた、ずーーっと、たのしい毎日を過ごしました。

 

落語や漫才で笑うのも笑いだけど、

自分たちの失敗を笑うのも笑い。

どうなるかわからないことに飛び込む楽しさ。

どうやったら次は失敗しないか考える楽しさ。

これをやってみない?と提案する楽しさ。

 

無農薬で果物を作ろうというチャレンジは、失敗ばかりだけど、

私たち二人とも、失敗にも何かしらの楽しみを感じてました。

 

「なんでそこで笑えるんですか?」

 

と、人から驚かれることは何度もありました。

そのたび、大きな声で自分たちの愚かさを笑ってる私たちでした。

 

他人は悲惨な目にあっている、と思っている状況でも、

本人たちがそう思ったことないんです。

 

野望に駆られてやってるわけではなく、

これをやったらどうなるんだろう? という子供の好奇心が根っこにあったからだと思います。

 

果物が3割しか収穫発送できなくて、

何人もの人をやとった人件費も、夏の暑い盛りの作業の連日も

すべて無為に終わったことは、とてもキツイことでした。

 

でも、どすん!と落ち込む時間はもちろんあるけど、

あとにひかない。次にいきます。

 

 

いま。

柿だのイチゴだのの無農薬がどうした、とかより、輪をかけて、もっとキツイ病苦のどまんなかにいる二人です。

 

にもかかわらず、

あいかわらず、

病苦というのは客観的な事実だけど、

不幸のどまんなかにいると思ってはいない。そういう主観はもってないんです。

 

その理由?

結婚しているから。

結婚すべき人と結婚したからです。

 

おっとは、私の日々の「たいへん」のきっちり半分をせおってます。

 

結婚は

喜びは二倍に

苦しみは半分にする

 

って誰が言ったセリフでしたっけ? 

まさに、本当に、結婚とはそういうものでした。

 

 

でも世間に多くある結婚は、そうならないようです。

私も一度は失敗しました。

 

 

結婚すべき人と結婚するにはコツがあるのです。

それをお教えしましょうか? エラソウですかね。

 

 

出会うべき相手に出会うコツは、

百%正直に自分を開陳することです。

 

 

私たちは二人ともそういうタイプだから、初めてあったとき、

「あなたは超能力者ですか?」

と私が真面目に質問したくらい、私が今考えていることを夫が0.1秒後に口にするのでした。

それが何度も連発されました。

 

(「最近、鉛筆使わないなあ」という思いが浮かんだ瞬間に彼が「最近、鉛筆使わないよねえ」と彼が言うとかです。私はそれに類することを一言も言わないのに。これは実話です。)

 

ふっと昔の歌を小さい声で歌いだしたら、同時に彼もその同じ歌を歌いだしたことも。

初対面の一日が終わるころには、それくらいのミラクルに驚かなくなるくらいでした。

 

そういうこと結婚してからもしばらく続きました。

今もあるけど、昔ほど脅威的な連発はしてません。

 

最近何かで読んだのですが、

隠しごとのない状態であるほど、テレパシーが使えるそうです。

 

彼がいい人であることが、出会って3時間で私もわかりました。

彼が何を怒って、何を悲しみ、何を許せないと感じるか、

そういうことを、彼が話したわけではなく、

わかるのでした。

 

ほとんど何もしらない状態で結婚したのに、

こんなはずじゃなかった、と驚いたことは結婚して9年目に入った今も、一回もないです。

 

 

こんなにいい人と結婚したんだ、私!

 

 

と驚くことは、いまだに続いています。

実は昨日もそういうことがありました。

 

 

こんなにいい人と結婚したんだ、私!

 

 

男に、夫に、人間に、こんなことを期待したことかつてない。

ってことを夫はしてくれます。

親にも望めないこと。

 

私の帰る場所は生まれた場所や両親よりおっとなんですよね。

 

私は両親のこともすごく愛しているし、二人からものすごく愛されていることも知ってます。

それでも帰る場所は、おっと。

 

このような言葉を使うのは生まれて初めてです。愛という言葉の意味を理解しているかどうかわかりません。おっとのことをほめたたえているからといって、欠陥のない人間だと思っているわけではありません。

 

 

 

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