前回の「ひ・ふ・み」のお話には多くの反響を賜り感謝申し上げます
すぐにでも更新したいのですが、なんだか毎日が慌ただしく落ち着いた時間を取ることが出来ません
でも講演にしろ祭りにしろ、訪ねる先々で、本当に親切に接していただきますので、疲れ知らずです←嘘です・・・ってコラーー!!舌の根も乾かぬうちに!!・・・だって、疲れるんだもん感謝しているのはホントなんですよ!
Mさまへ!過日は大変お世話になりました~~。この場を借りて改めてお礼申し上げます。
さて、今回も少し和の数え方について綴ってみますね!
前回は、わたしたち「人」の数え方についてお話しました。
まずは「霊留(ひと)」という単体から、やがて夫婦という一生のパートナーを意味する「傍(はた)」が「ふた」と変容して「二つ」!
次に掛け替えのない新しい命の誕生は、夫婦のこころが満たされることなので「満つる」で「みっつ」
さて、次に「満つる単位」したがって「家族」という社会最小単位だけでは私たちは生きていくことは出来ません。
家族同士は親子やご近所でも、心を寄せ合って共存してこそ、地域の和はは保たれる・・と考えた先人は、三つの次に「寄せ合い」と示す「寄っつ=四つ」と数えることを後世に教えました
現代社会が失いつつあるのは、実は「3つ」以降の数え方に込められたライフスタイルではないのでしょうか?
ところで、この我が国独特の数え方を俯瞰すると、一体誰からみた視線になっているのでしょうか?
おそらくこれは「自然の営み」(お日さまとかお月様とかふる里の山々の頂とか・・・)からみた生命の誕生から社会という単位が築かれていった過程であることがわかりますよネ
では、これを総称して「神様」と呼称した先人は、神様をどうやって数えたのでしょうか?
お分かりの方の多いかと存じますが、これは古来より「柱(はしら)」と数えます!
例えば八幡宮であれば「仲哀天皇・神功皇后・応神天皇」が代表的ですから、これを「3柱の神様」と数えます
ではなぜ「柱(はしら)」なのでしょうか?
ご承知の通り「柱」とは山々に茂る木々が原点です
神様と木・・・・一見無縁のように感ずる両者ですが、木は地から天に登るかのように真っ直ぐに伸びることから、古代は、天と地をつなぐ「梯子(はしご)」と考えられたのです。
天と地・・・はたまた地から天を行き来するための梯子ですから、当然、その木々には特殊なお力が宿ります。
例えば、お箸の上からお水を垂らしたら、お水は箸を蔦(つた)って下へ流れますよネ
あの理屈といっしょです
故に、先人は神様はふる里の山々の木々を蔦って、私たちの世界と神様の世界を行ったり来たりしてると考え、木々を数える単位である「柱」をあてたのです
これは仏教伝来以前から、我が国独特の風習としてしっかりと受け継がれました。
今でも亡くなった方の枕元には、ふる里の山をかたどったご飯にお箸を立てますよネ!
昔は赤ちゃんが産まれた時も、同様な風習があったのです。
やはりこれは、ご飯はふる里の山として、お箸は山々の木に見立てて、亡くなった方が「霊留(=人」から、「隠身(=神)」となる過程を形として残している証です。
おむすびもまったく同様で、ふる里の頂上に鎮まっているご先祖さまからもたらされた日や水の恵みに感謝すべく、私たちと先祖神(産土神ともいいます)を結ぶ象徴として山の形に握られるのですネ
こうした風習だけとっても古に生きた先人の知恵には感心させられるばかりですが、実はもう一つ!とても大事な人生観を彼は残してくださっているのです。
それは、人は柱とは数えない・・・。でも!木々の生き方には大いに学ぶべきものがある・・・。
人は誰でも成長し、いつしかそれぞれに将来の「夢」を抱くようになります。
夢とは、叶うとか叶わないとかそういった次元で捉えるべきものではなく、常に星空という夢を見上げてまっすぐに伸びる木々の目に見える部分だけを見てはダメ!
よ~~く足元をみてごらん。心は夢にむかっていても、根という足はしっかりと地についていることに気づいて欲しい。
理想のためには地に足がついていなければ、目的は達成できないというリアリズムをもって欲しい・・。
ゆえにわたしたちの体には「目=芽」「鼻=花」「茎」「葉=歯」「耳=実実」「足=葦」といった名称が充てられたとわたしは考察しております!