「コロナ禍」で「孤立」し、「孤独死」する人が増えているかもしれない、という雑誌の記事を読んだ。
「孤独」は比較的得意だった(苦手ではなかった)。最近流行りの「ひとりキャンプ」ではないが、一人用のテントをバイクに積み込んで四国を一周(一人で)したりもした。誰もしゃべる相手が居なくても淋しいと思うことはあまりないし、脳内出血の後、リハビリ病院で5か月間一人で入院していても「孤独」を感じることはさほどなかった。しかし、お医者さんや療法士さん、見舞いに来てくれる家族や友人の姿を感じると、
「孤立」ではないが、しっかりおかげさまで「立たせて」もらっている、と感じた。もちろん「孤独」で「立って」いるので、それを「孤立」と言うのかもしれない。しかしそこには「一人ではない」という感覚が確かにあった。
「孤立」ではないが、しっかりおかげさまで「立たせて」もらっている、と感じた。もちろん「孤独」で「立って」いるので、それを「孤立」と言うのかもしれない。しかしそこには「一人ではない」という感覚が確かにあった。
「旗幟鮮明(きしせんめい)」という言葉がある。これは尊敬する昔の上司が私に「大事にして生きて行け」と贈ってくれた言葉だ。
「NHK放送文化研究所」のサイトによると、
「旗幟」は「旗(はた)と幟(のぼり)のこと」で、「旗幟鮮明」は、「はたじるしがあざやかではっきりしていること。転じて、態度・主義・主張などがはっきりしていること」(『広辞苑』岩波書店)だ。「幟」の音読みは「し」、訓読みは「のぼり」で「旗幟鮮明」は○「きしせんめい」と読む。
※「きしょくせんめい」という誤った読み方は、「幟」の文字の旁<つくり>が「職」や「織」と同じであることや「旗色」(はたいろ)の文字の連想から出てきたものと思われます。
放送での表記は、「旗し鮮明」[×幟]です。なるべく「態度(立場)をはっきりさせる」などの言いかえや言い添えをしています。
▼(参考)NHK放送文化研究所
放送での表記は、「旗し鮮明」[×幟]です。なるべく「態度(立場)をはっきりさせる」などの言いかえや言い添えをしています。
▼(参考)NHK放送文化研究所
「旗幟鮮明」に生きていくことの前提は、「孤独」ではなく、多くの人に囲まれた社会や職場において、「独り」でも自らの脚で立って、自分の考えや立場を確立し「しっかりと生きて行く」、ということだ。
「障害者」として「旗幟鮮明」でいるためには、どうあるべきなんだろう?」
ふと考えてしまった。
「障害者」として「旗幟鮮明」でいるためには、どうあるべきなんだろう?」
ふと考えてしまった。
「よーしゃべる」「発信する」障害者として。
雨が降り出しそうな水曜日の夕方。