アイドルの仕事が少し落ち着き、昨日から締切に追われている。
頼んでいた資料を取りに図書館に行かねば、と思うのだが、なかなか腰が重い。
元来、私は筆無精である。手紙の返事は出さない、いや、出せない。
今ならばメール、LINE、その他。
送信ボタンが押せない。あまり人と付き合いはしないほうかもしれない。
SNSの発達によって、そんな私も知人友人の近況を知り、何もせずとも伝えることはできるので、何らかのつながりは保っているはずだ、と信じる。しかし、その知人友人とのつながりとやらと、今このブログを読んでいる人が知ることができる私の情報はほぼ同一だ。何故かTwitterには過剰と言えるくらい投稿することはできるのだが、まとまった何かを書くのが得意とは言えない。
日記に書くことなぞないのだ。

悪夢を見た。

Twitterでは、私が以前書いた解説文の一部が、botの一部として流れている。書いたことをすぐ忘れる性分だが、エゴサーチの際に毎回目にするそれは流石に頭に残っている。

必死に生きてきた、環境に馴染んだ、その後の自由は、自由ではなく空洞と似たものに感じる。
『小説・秒速5センチメートル』解説

私はそう書いていた。私は『小説・秒速5センチメートル』を、恋愛物語とは捉えなかった。
環境に翻弄された子供の、その後の物語だと思った。

新海誠監督作品『君の名は。』を、私は観に行く事ができない、1人では無理だ。
幸せそうに生きる高校生男女の話が苦手だからだ。物語がいかに良質でも、それを受け止める私の器が歪んでいるのだ。
私は高校を中退した、その前後の自身の生活を今でも悔み、夢に見、枕を濡らし、挫折感から立ち直れていないのだ。
それだけの話である。

ああ早く、顔を洗い、着替えなければ。
でも、そんなことはどうでもいい、ともう一人の私は泣きわめいている。
インナーチャイルドとでも言えばいいか、彼女はいつも泣きわめいている。彼女は緩やかな自殺を私に求める。動くな、働くな、何もするな、それは社会的に死ぬことを意味する。金がなければ死ぬ。それでも彼女は何もしないことを求める。

私は本当は書くことが好きだった。
しかし繰り返される罵倒と否定と嘲笑が、全て壊してしまったのだろう。
幼少期から、詩を書くのが好きだった。
私は詩を書くのが好きだった!
かわいらしいノートに書き溜めていた。全て捨てた。日記も捨てた。何もかも捨てた。
まだ九九を覚えている頃、自分で本を作っていた。拙いながら、装丁のやり方を調べ、紙を切り、ホッチキスで留め、テープを貼る。私だけの本だ。全て捨てた。図書委員になって、家のパソコンを使って読書新聞も作った。イラストレーターの使い方を覚えて、スキャナーを使って表紙の画像を取り込んだ。文章は全部自分で書いた。私はそうやって、ものを作ったり、好きなものを紹介することが好きだった。全て捨てた。


因果なものだ。

私は今ある自由を自由と認識することができない。
空洞のようなものに怯え動けない。


とりあえず、冷たい水で、何もかも洗い流しに行く。
それからだ。