「身体快感を得たらそれは性被害ではなく合意の上の性行為である」
「おぞましい犯罪被害中に快感を得たスキモノ」
……などなど、性暴力被害者を苦しめる言説は今も生きている。

強姦から快感を得、結果合意性交となるストーリーのポルノは男性向けにも女性向けにもありふれているが、ポルノはポルノであり、男性向けでは「(心身共に性的に)支配」、女性向けでは「(性交に至る言い訳)理由」を示すことが多い。
しかしそのようなポルノストーリーも、現代のほうが多様性があり、女性が性的に抑圧されていた時代には、男性による強姦から性的関係が始まるというあらすじは珍しいものではなかった。未経験の男女が経験者に半ば強引に性行為に誘われるという導入はよくある。

しかし私はポルノストーリーについて語りたいわけではない。
私は運良く、ポルノストーリーでしか知らないが、一部加害者ではそれを信じているし、セカンドレイプを行う者も「強姦神話」を信じている。

セカンドレイプは勿論、被害者が自分を責める原因のひとつにもなっている。
男性被害者は特に、性器の特性も有り、「そもそも自分は被害者ではないのではないか」「喜んでいたのではないか」
と悩むという。また、ヘテロ男性が男性からの被害を受けた場合、自身のセクシャリティが崩壊し、更に自身へのホモフォビアに苦しむ被害者もいる。男性被害者の認知度の低さもあり、社会的にも、「快感」の責に苦しむ。

(それにしても「強姦罪」が男性に適用されないのは男性差別だと思う。法における性管理は私はさらっと角田由紀子『性と法律』を読んだ程度なので適当によい本を読んでみて欲しい)

殴られたら痛い、くすぐられたらくすぐったい、性的刺激を受けたら、身体が反応する。
痛みでも無感でも快感でも、身体が変化してもしなくても、それはなにもおかしいことではない。
加害者が免罪されることはない。
どのような身体反応をしたとしても、加害は加害、暴力は暴力だ。

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実父による強姦という「おぞましき」関係でも、なぜ逃げなかったのか、関係を保っていたのは快感があったからではないのか、と被害者は問われる。実父でさえそうなら、親戚なら?知人なら?友人なら?

性暴力被害者を穢れとして扱う価値観はまだ生きている。
隠蔽される。
被害者は共同体を乱す汚れた人間とされる。

そんな世の中で、社会で、私は身体侵犯を笑うことはできない。
性的接触は安易に暴力になり得る。権力勾配により、暴力は安易に隠蔽され得る!

彼らは穢れてなどいない。
あらゆる方法で汚れとされたものを洗い流しながら生存を続け、憎しみをたぎらせ、怒りを熱量にし、解離の中、全てを忘却しても、それでも生きる。彼らは生きる。生き残れなかった彼らも、それでも最後の瞬間まで立派に生きたのだ。

陰惨な強姦事件、性的虐待、痴漢、セクハラ、ちょっとおしりを撫でること。
全て繋がっている。決してきっかり線を引けるわけではない。
線を引けると思っているならば、自他の心身の区別をつけているかどうか思い直したほうがいい。
軽微だと思っている身体侵犯の先に、癒えがたい苦しみと憎しみがこちらを睨みつけている。


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