天王寺区餌差町にある「心眼寺」に父親は眠っており、墓参りに行きました。真田山(さなだやま)って何?とずっと思っておりましたが、今更改めて色々知ることになりました![]()
心眼寺は元和8年(1622年)4月自牟和尚が、大阪城出丸城廊跡に、真田幸村父子の宴福を祈る為に堂舎を創建し、浄土宗法然上人の念仏道場として、今日迄永く法灯を伝えてまいりました。当時付近は、名将真田幸村(真田左衛門佐信繁)が慶長19年(1614年)冬の陣に、豊臣側にとって手薄な上町台地の大阪城南東二の丸南に、真田の出丸と呼ばれる半月形に砦を造り、松平忠直・井伊直孝・前田利常らを迎え撃った陣地であり、境内地に幸村鎧掛の松の木もありましたが、戦災で焼失致しました。後にこの付近は真田山と呼ばれるようになりました。真田幸村は冬の陣では、大勝利を収めましたが元和元年(1615年)の夏の陣5月7日、茶臼山に陣取り家康の本陣を一気に攻めましたが、多勢に無勢の為傷つき、安居神社の境内で休憩中、松平忠直の配下、鉄砲頭西尾久作と家来に不意をつかれ、落命致しました。尚、真田山心眼寺は時の幕府戦略上の関係もあって、上町台地にお寺が集められた折、白牟上人が大阪冬の陣の陣地跡に、真田幸村とその子大助の宴福を祈る為に創建されました。その為、当時の定紋は真田家の六文銭と定められ、山号は真田山となっております。しかし、真田父子の墓は当時幕府の直轄地のため、お墓は建立されなかったようです。
心眼寺の中に「まんなおし地蔵尊」があります。
まんなおし地蔵は創建年代不明ですが、まん悪きとき、開運の祈願をかけると願いが叶うと言われ、庶民の信仰篤く日夜参詣が絶えなかったようです。特に昔は商売の方や、花柳界の信仰が篤いようでした。まんなおしのまん「間」の転音で「なんてまがよいのでしょう」などという運、めぐり合わせ、縁の意味で、まんなおしは不運を直して幸運を願おうとする行為・景気づけ・運直し・演技直し・げん直しの意味です。戦前は地蔵参りの帰りに、真田軍薬なるものがよく売れていたようです。これは真田幸村が傷薬として、愛用していたものと言われ黄色い粉末で、袋に六文銭のマークが付いていたもので、よく傷に効いたそうです。また最近では商売・受験・就職・結婚・対人関係などが、うまくまんよく行きますようにと願をかけられる方が多いようです。
心眼寺 寺歴より記載
帰りに天王寺区玉造本町にある、宰相山公園を通りましたら日曜日でもあり、たくさんの方が花見をされてました。
ここには、三光神社があり「真田幸村」公の銅像があるそうなのですが、次回散策してみたいと思います。


