タマネギの流氷漬け -5ページ目

タマネギの流氷漬け

将棋を中心に、長男・次男の少年野球等、子供たちの日々の感じたことに対して書いていきます。

阿鼻叫喚のうちに最後の電王戦が終了となったのだが、今後の将棋界とコンピュータがどのような形で関係を取り持てば良いのか今回の一部始終から鑑みてもより混沌な状況を呈してきたと言わざるを得なくなった。

ここぞとばかりに共存共栄を謳ったコンピュータとタッグを組んだ大型棋戦も、『まるで主役がコンピュータで人間がオペレーター』といった評判の悪さから白紙状態に戻り、次なる一手に苦慮しているのが実情であろう。

そこで5vs5形式を最後と考えた場合、それに匹敵するか、それ以上の誰もがわくわくするような形式をドワンゴ社に勝手に提案したい。

①棋士、コンピュータソフトが混在する非公式トーナメント棋戦を新しく立ち上げる。

②出場棋士はタイトルホルダー以外の全棋士が予選から戦うこととし、本選では電王トーナメントを勝ち抜いた5つのコンピュータソフトとで優勝を競い合う。但しタイトルホルダーも出場の意志があれば本選から参加は可能とする。

③決勝戦は3番勝負とし、先に2勝した方が優勝となる。優勝したものには電王という称号を1年名乗ることが出来、次年度は予選を免除され本選から出場可能となる。

④持ち時間はお互い5時間のチェスクロック形式で持ち時間が無くなった場合は一手60秒の秒読みとなる。

⑤コンピュータソフトの貸出は禁止とし、ソフトの改変は対局の2週間前までとする。使用するコンピュータハードはこちらより指定する。

⑥floodgateでの他のソフトとの対戦棋譜を最低30局は用意して、1週間前までにコンピュータソフト開発者は対戦相手に配布する

⑦コンピュータの代指しはお馴染み“電王手さん”。

⑧2年毎に存続の可否を判断する。


いかがだろうか。ハード面に制限がかかる部分は棋譜との整合性から致し方無いが兎に角これで研究によるなぞり勝ちだの発表会だのといった批判は完全に封じ込められる。そして何より一番見たかったガチンコ勝負が復活する。団体戦であるが故に内容よりも勝利が優先されて、嵌め手や穴を狙う理由が出てきてしまったが個人戦で勝ち上がり方式だとそれも無くなる (アンチコンピュータ戦略を好んで採用したければ仕方ないが)。但し、進行が進むにつれてコンピュータソフトだらけになるという危険性は常にあるが、人間はそもそも挑戦者だという視点に立てばそのようなことも十分あり得ると想定していれば違和感は薄れるのではないだろうか。

またやはり棋士には仮面ライダーのように常に孤独感を身に纏って、たった一人で強靭な敵と対峙してほしいし、それが棋士の棋士たる由縁であり、矜持でありプライドでもあるはずだ。

コンピュータとの共存共栄とはコンピュータ片手に対局に挑むのではなく、コンピュータにできないことをはっきり線引きさせ人間の存在価値を最大限に際立たせることではないだろうか。例えばコンピュータは過去からのデータを分析して未来を弾き出す。人間は過去の経験を考慮しつつも、戦略的かつ一貫性をもち、時には柔軟性に富んだアイデアで未来をその一秒前まで描く。このような捉え方も出来るのではないだろうか。


この先人工知能が持て囃される時代がきっと到来するが、人工知能はどう頑張っても人工知能を越えられない、つまり想像力や発想力、直感などといった人間の知能を越えられない。そんな聖域が存在するんだという未来が必ず待っているならば我々は勇気を持って突き進んでいける。そんな気がしてならない。

『事実は小説よりも奇なり』

まさにこの言葉がぴったりくるような衝撃的な幕切れであった。阿久津八段が作った罠にAWAKEがまんまと嵌まった瞬間、開発者巨瀬氏は投了の意志を告げた。結果21手という余りにも短い手数で最終局は打ち切られた。

勝者にも敗者にも深手の傷を負わす形になってしまった訳だが、では両者とも傷付けずに円満な結果にできたかといわれると満足いく答えはみつからない。

今回の勝敗が今後の将棋界の未来を左右するという背負いきれない重圧のもと、コンピュータの事前貸出による研究で発見した敵の弱点を突かないまま負けに至ればそれは美学でも何でもなくただの臆病者に成り下がってしまうという途方もなく困難な立ち位置にいた阿久津八段にも同情の余地はある。

勿論葛藤はずっとあったはずだ。第1回から第3回まで三年連続で大きく人間側は負け越し、背水の陣で挑んだ今回の電王戦。そして2対2のタイスコアで迎えた今局。対戦する阿久津八段は、将棋界の未来の十字架を自ら背負った救世主でもあり背負わされた犠牲者でもある。よって眼前にある対局は何としてでも勝たないといけない勝負であり矜持や尊厳などなりふり構っていられなかったのである。

それは第1局の斎藤五段から第4局の村山七段まで同様の条件であった。一つ違ったのは他のコンピュータと違いAWAKEには決定的な穴があった。そしてことのほかAWAKEはその穴に素直に落ちていく傾向が強かったのである。その穴を見過ごしてプロの尊厳を保つか、それともその穴を的確について何もかもかなぐり捨てて勝負に徹するか。昨年までなら答えは前者であったろう。しかし、その思いで真っ向から挑んだ棋士達が悉く(ことごと)討ち死にしてしまったという事実が眼前に横たわっていた。もはや電王戦は大きく変貌を遂げていた。いかに事前研究をし尽くして弱点を見つけそれを的確に再現できるのかという戦略ゲームに。

巨瀬氏には残念であったが、出るタイミングが遅かった。もう電王戦は棋士vsコンピュータの真剣勝負を競う場では無くなっていたのである。そこに真剣勝負を追い求めたものとそうでないものとの相違が今回の悲劇を招いたのである。

彼は奨励会を21歳で追い出された、いわば将棋から拒絶された身である。それが8年という年月を経て再び将棋会館という聖地に強制的に立たされたわけなので、望んできたわけではなく、やはりもうその場所に未練はない。あるのは自らが天塩をかけて作ったコンピュータが、自らが夢にまで見たプロ棋士相手にどこまで通用するかという純粋な想いだけであった。


だが、その想いも21手という短手数で儚く散った。

幻想の砂の城は跡形もなく崩壊し、残されたのは虚しい現実だけだった。そして全ては終わった。もう指し続けることに何の意味も無い。

真剣勝負を期待し、最も純粋なプログラムを組んで半ばプロ棋士を信じきって勝負に挑んだ彼を誰が責められようか。これは阿久津八段も同様だ。

我々がしなければならないのは二度とこのような不毛な背景を含んだ対決構図を作らないことと、このままの形で電王戦を決して終わらせないことである。


誰もが第2回電王戦の時のような痺れる勝負を見たいと考えているはずであり、そのような勝負をもう一度実現してくれるときっと期待している。そして電王戦が将棋の魅力を高める舞台に返り咲くことをいつか夢見てまた私も喧噪の現実に引き戻されるのである。

 人間側がAprey,Seleneに連勝してコンピュータを圧倒したかと思いきや、逆に第3局はやねうら王にものの見事に跳ね返され、そして迎えた第4局の村山慈明七段 vs Ponanza戦。

結果は村山七段渾身の飛車角乱舞の序盤作戦を、Ponanzaは丁寧に応対して最後まで乗り切ってしまったのである。しかしである。相横歩取り角交換型の対応として▲7七歩と辛抱したのには驚かされた。まずこのPonanzaがどこかの一門に属するような見習いの棋士であったなら破門に近い扱いを受けたのではないか。争点を消す意図は分かるが余りにもへりくだり過ぎであり、その地点へ行きたい桂馬や銀を蔑ろにする非情手段である。

そして、△7四飛という後手の飛車交換催促に対して、▲3六飛とまたもやPonanzaは局面を納めかかる。この辺りのやり取りは暴れる猛牛を軽やかにかわす闘牛士のようで、そんなものは存在しないのだがPonanzaの強い意志というものが感じられた。

しかし、村山七段の形とばかりに跳ねた△3三桂に一転Ponanzaは鋭敏に反応する。飛車を左右に動かして相手陣に隙を作り馬を作ることに成功し、今度はジリジリとその馬を中心に優位を拡大していく。

その後は小さな優位を大きな優位に拡大するプロ顔負けの指し回しでPonanzaは村山七段を圧倒し続け、終わって見ればPonanzaの完勝譜となった。村山七段の当初描いていた序盤で優位に立ち、激しい展開にして中盤を通り越して一気に終盤に持っていく構想がものの見事に一蹴されたのである。

敗因も糞も無い。もうこれは素直に認めるしかないのである。Ponanzaが純粋に強かったのということを。内容は大駒一枚ほどの差を感じずにはいられなかったが負けるときは第3局同様こんなもんである。

対戦カードが決まったときに、村山七段は副将なのになぜPonanzaと当たるんだと嘆いたが、まさにPonanzaの強さそのものを認めているがゆえのごく自然な反応をした。そのことからも村山七段はPonanzaの横綱級の強さを既に認めていたのである。

さて、これで人間とコンピュータが2勝2敗と拮抗し、決着は最終局に持ち込まれ、俄然電王戦Finalが面白くなったのだが、残念なことにここまでの対戦ははらはら感が無くどちらかと言えば一方的な戦いばかりであった。よって欲を言えば最終局の阿久津八段vsAwake戦は最後までどっちが勝つか負けるか分からないような手に汗握る熱戦を期待したい。いやぜひ見てみたい。痺れる一戦を。そして阿久津八段が勝てば堂々と胸を張って『まだ人間が強い!』と言えるのだ。だからこそ阿久津よ、電王戦の灯火を消さないでくれ!頼んだぞ!総大将!
今回の敗戦はあらゆる意味で不可解この上なかった。稲葉七段といえば将棋界で勝率も7割と頭一つ抜け、順位戦においても今期B1に昇格しており、実力は折り紙付き。果たして今回のテーマとも言うべき『強い若手棋士が事前研究をしっかり出来ればまだコンピュータに勝てるのか?』という問いにはっきりと答えを出せる格好の人物であった。

しかしいざ蓋を開けてみると、明らかに終盤に時間を残そうと意識した早指しと、その途上に繰り出してしまったココセのような▲2七歩突きで猪突猛進、自陣を崩壊させていく。

そしてふと我に返った時には時すでに遅く、惨憺たる局面が眼前にあり、最後は混乱の最中、あっさりと敵将に討ち取られてしまった。

さて、この原因は何なのだろうか。

事前研究は早指し300局、5時間という本番模擬練習も指し掛け70局、通しで10局と申し分ない。また5つほど勝ちパターンを見つけておりその代表格であるひねり飛車にもなった。確かに飛車を捕獲する手順には誘導できなかったが、それでも大方の予想通りに事は進んでいたはずだ。

しかし結果はよもやの大敗。見せ場も全く無く、逆に余りにも一方的だったのでやねうら王の見せ場も存在しなかった。そういう観点からは勝負としてはやねうら王の勝ちだが、将棋の魅了度としては両者が敗北であり、やねうら王にとっても不本意だった事であろう。

そこで改めて原因を考えると事前の特集映像で稲葉七段は再三気になる台詞を口にしていた。

やねうら王の棋風の話で、開発者の磯崎氏がホームページに表示させているアニメの女の子(ツンデレちゃん)がやねうら王だと表現すると、稲葉七段は「その(アニメの)目が嫌」と反応する(私は結構好き)。

また、電王戦後もやねうら王を研究に使用するかという問いに対してきっぱりと「全く無い」との答え。

その他の反応も合わせてみると、稲葉七段はどうやら元々やねうら王に強い拒否反応を有していたことが推測できる。

ここで以前NHKで放映された加藤一二三九段と故米長永世棋聖との大盤解説企画で、難局面を迎えた際の米長の思考解説が私の脳裏に去来した。

米長「ここで加藤さんなら最善手を指そうと一生懸命考えるんですね。でも私は違うんですよ。私は相手が何を考えているのか、どうやったら相手の裏をかくことができるかどうかをずっと考えるんですね。これが加藤さんと私との違いです」

この件(くだり)は米長一流の話術である点を差し引かないといけないが、米長の『相手の思考を見抜く』という卓越した勝負術を表す名エピソードである。

これは相手が強者であればあるほど重要度を帯びてくる。つまりいくら自身の思い付く限りの最善手を考え着手した所で、相手にその手を上回る手を指されれば、最善手は最善手でなくなる。いかに相手の手を上回れる手を指せるかどうか、相手の思考回路に自身の思考回路を同調させることができるかどうかが勝負の鍵なのである。

それは習甦に勝利した阿部光瑠やツツカナにリベンジマッチで勝利した船江恒平や森下卓も異口同音、「○○はこういった手を好むんですよね」や「この局面ではこういう手を指してくるんですよね」と相手の思考回路を自身に取り込んだかの如くの発言からも明らかであろう。

そのような視点に立つと、今回の稲葉七段ははなっからのやねうら王への強い拒否反応、いわばアレルギーが、自身の勝ちパターン探しに事前研究を片寄らせ、一番大事な相手とのシンクロナイズを無意識に頭の隅に追いやらせたと言えないか。

ここでアレルギー(allergy) の語源をみると、alは「別の」「異常な」で、ergは「せきたてる」、または「働く」とあるが、まさに稲葉七段はやねうら王という抗原に対して、『急き立てられる異常な働き』を起こし、おのが思考回路を自らの抗体で破壊するというアポトーシスが真の敗因とするのが何だかしっくり来る。大山ばりにあからさまな盤外戦術を駆使するのではなく、自然に相手を凹ませるやねうら王とは大したものである。

つまり勝負は記者会見壇上でお互いが対峙した時点で既に決していたのである。

巷では第二局の永瀬vsSelene戦のリベンジマッチの話が持ち上がっているようだが、この第三局こそリベンジマッチを見てみたい。このままでは稲葉七段も忸怩たる思いを引き摺ってしまい、勝ったはずのやねうら王も賞賛されずと、双方に残念な結果のままである。運営の方ぜひお願い致します。そして稲葉七段よ、やねうら王の異質的な強さを取り込んで、それを踏み台にして飛び立っていってほしい!
この電王戦第二局というのは毎年何かが起こっている。一昨年ではご存知のように初めてプロ棋士がコンピュータに負けるという大きな転換期があり、昨年ではコンピュータ側の事前対策にいちゃもんがつき電王戦が中止に追い込まれるぐらいの騒動となった。

果たして今年のFinalではどうだったのか?実はある局面までは何ら問題なくスムーズに事が運んでいたのだ。そのある局面とはコンピュータが棋士不利を数値ではっきりと示していた矢先に訪れた。

対局者の永瀬六段が成れる角をわざと成らずに王手を掛けたのだ!

『△2七角成らず』

私はプロの指す将棋で成れるはずの大駒を成らずに指した場面を初めて目にした。咄嗟に脳裏に浮かんだのが、あえて取らない手も選択肢に加えさせることで、コンピュータの考慮時間を削ろうとする勝負術だなということだった。

しかし、映像を見ていると何やら様子がおかしい。対局中だというのに人が行ったり来たりを繰り返している。いったい何が起こったのか?なんと対峙するコンピュータソフトSeleneが角不成を認識出来ず王手放置してしまったのだ。そして敢えなくSeleneの投了となった。

しかしまだこの話には続きがあった。なんとなんと永瀬六段は自分が不成を指すと相手プログラムがその手を認識できずフリーズして投了することを事前練習で知っていたというのだ!

「え~そりゃないよ~。それでは余りにも開発者の方が可哀想すぎるんじゃないか」

誰しもが率直にそう思ったはずだ。かくいう私もその一人だった。その後の記者会見を聞くまでは。反則勝利後の記者会見で永瀬六段はこう述べた。

「Seleneとの練習将棋は5時間の設定ならいい勝負、それ以下ならまったく勝てませんでした。通算勝率は1割程度だと思います。Seleneは強いソフトです。今回の結果で誤解されるとしたら西海枝さんに申し訳ない。ただ、実戦でその1割を引くことは可能だと思いました。
角不成は練習中に指したことがありました。当時は私が指した10分後にSeleneが投了しました。それがバグだという確証はありませんでしたが、少なくともSeleneが時間を使うのは知っていました。みなさまを戸惑わせてしまった部分もあるかと思いますが、本局は時間を気にして指していたこともあり、時間を削る意味でも△2七同角不成を決断しました」

つまり永瀬六段はSeleneの強さを身をもって感じていたがために、正攻法ではないが、敢えてSeleneの経絡秘孔を突き『お前はすでに・・・』の名台詞を本番で吐き捨てたのだ。

三浦九段によるとその行為は99%の勝ちを100%にしたとのことで、鬼軍曹の名に違わず非情手段で相手を切って落としたのである。。

これで電王戦の第二局は予想に違わずまたもや鬼門となった。しかし今回その門を潜ることになったのはプロ棋士ではなくコンピュータだった。Seleneサイドにとっては残念な結果となったが今回は相手が悪かった。勝つためにはどんな努力も惜しまない、どんな手段も選ばない執念の男であったからだ。

ここで旗と気がついた。実はそれ以上に大きなことは、やっている当の本人らにとっては、これは単なるvsコンピュータとのエキジビション、見世物ではなく、この先将棋界においてプロ棋士が生き残れるのか、それとも人工知能に席巻され、プロ棋士は淘汰されるのかを占う真剣勝負の場なのだと。

これでよもやの人間側の2連勝!次は曲者やねうら王の登場である。場所も函館五稜郭と話題性は申し分ない。今度はどんな対局になるのか、人間側の初の勝ち越しになるのか、ボルテージは上昇中だ。稲葉五段の奮闘を祈る!
   あれからどれくらいの月日が経ったのか。コンピュータという異星人と闘うことに心躍らせていた自分が、今や嘘のように冷めた眼差しでこれから始まる異種頭脳格闘技戦を迎えていた。

その圧倒的な計算力と膨大な評価関数を武器に、終盤は勿論、漠然として広すぎるコンピュータが不得手なはずの中盤も人間と互角、そして人間が400年掛かって築き上げた定跡を殆ど採り入れずとも自力で序盤を歩行可能になるまでに至ったコンピュータも現れ、人間にもはや勝機はゼロだとさえ感じられた。

その重苦しい霧を真っ向から切り裂く5人の精鋭たちがやって来た。先鋒は実力とルックスを併せ持つ駆け出しのスター斎藤慎太郎五段である。

斎藤五段の特徴を最も表しているのが、『好きを通り越して愛している』とまで公言している詰将棋愛好家という代名詞だろう。詰将棋という深淵なる世界にのめり込み、しかしそこに埋没することなく実戦でも活躍する様は既に女子の入り込む隙間は微塵も残っていない。いやしかし動画のインタビューでは大人しい女性が好みだと語っていたことより女子ではなく肉食女子の入り込む隙間が無いに訂正する。

そして京都二条城という歴史と風情が存分に織り成す舞台にて今年の電王戦も幕を降ろした。

今回の予想は棋士側から見て良くて3勝2敗、悪くて全敗だ。そして大半が後者に近い見解であった。それも無理は無い。故米長永世棋聖の無惨な敗戦から始まり、これまで徹底的にコンピュータに叩きのめされてきたのだからその予想は誰しもがすんなりと受け容れることができた。かくいう私もコンピュータを駆使してきた若者が出てきたとしても初戦から苦戦の連続になるだろうと思った。

しかし、いざ蓋を開けてみるとどうだろう。斎藤五段の躍動する指し手に釣られ、対峙するAperyも積極的な応手を繰り出し、気が付くと局面はずるずるAperyにとって思わしくない方向性を帯びてくる。

角道を開ける△4五歩、▲5七銀と6六の銀を引かれ角交換を挑まれたときの応手△6五銀、そして角交換後に穴熊を阻止する意図の△4四角。この序盤から中盤を通り越す道をAperyが採択する。まるでApery自身が斎藤五段の持つ“何か”に怯え、焦りを生み、それが拙攻に繋がるという悪循環に陥っていた。

勝敗は呆気なく決まった。最後はAperyの断末魔をただ傍観するだけという儀式で終わった。斎藤五段が何か特別な技を掛けた、用意周到な罠に嵌めたわけではなく、Apery自らが墓穴を掘ってその中に飛び込んでいってしまったという将棋であった。

故米長は言った。『つまらない将棋を指せば人間が勝ち、面白い将棋を指せばコンピュータが勝つんですよ』。私はこの第一局を、見ていて正直わくわく感は無かった。裏を返せばそれほど安心して斎藤五段を応援できたからだ。

阿部光瑠、豊島将之、そして斎藤慎太郎。この3人の対戦に共通するのは切った張ったのやり取りが無く、中盤をすっ飛ばして一気に終盤戦に持ち込み、最後は一方的な展開にしていたことだ。今回の対戦も正に大勝に素早さを加えた“大捷”であった。

米長は事の本質を見抜いていたのだ。その先見の明や畏れ入る。死せる孔明、生けるなんとやらに通じるものを感じる。さて、明日に迫った次鋒戦、永瀬拓也六段はSelene相手にいったいどんな作戦を用意しているのだろうか?興奮して夜も眠れそうにない。
新年明けましておめでとうございます。
今年も宜しくお願い致します。

さて今年最初の話題はもちろん昨年大晦日から年跨ぎした白熱の電王戦リベンジマッチでしょう。

『継ぎ盤を使って秒読み一手15分で指す、このヒューマンエラーを無くす方法なら、まだ人間の方がコンピュータソフトに勝る』

この発言は第3回電王戦の最後のパートでの森下九段の発言要旨ですが、そもそも棋士が脳内将棋盤を駆使して何十手先もの局面を読み切ることができることに多くの賞賛と尊敬が集まっているのに、それをかなぐり捨ててまで勝負に挑むことにいったいどれだけの価値があるのか、勝算などなくただの苦し紛れだと誰の目にも写ったはずです。

とあるブログでの勝敗予想では圧倒的にツツカナの勝利に支持が集まっていましたが、かくいう私もツツカナを支持しておりました。

その最大の理由が、昨年の第3回電王戦の森下九段の練習風景から二者の間には大きな棋力差が生じていると察し、たとえ考慮時間が無限にあろうとも、相手にも同様の時間を与えてしまうため、その棋力差は良くて平行線、悪ければ更に拡がり、とどのつまり絶対に埋まらないと考えた訳です。

もし仮に勝てる展開があるとすれば、それは事前研究範囲内に誘導し序盤で優位にたち、それを徐々に丁寧に拡げていくという方法しか有り得まいと思っていました。

しかしいざ蓋を開けてみると、序盤はほぼ互角のまま推移し、駒がぶつかり合った中盤での捻り合いから一歩抜け出してぐんぐんと差を拡げ、ほぼ勝勢という局面にもっていくことに森下九段は成功していました。これには流石のツツカナも入玉モードに切り替えるしかなく、体力的に詰まし損ないを恐れた森下九段も同じく入玉モードに切り替えたため、これ以上の中継は困難と判断した現場サイドからのストップがかかり決着は後日持ち越しとなりました。

ただ私はこの勝勢までの進行に衝撃を受けたのと同時に、どうして埋めることのできない棋力差があるはずなのに継ぎ盤と一手10分の考慮時間で森下九段はコンピュータソフトを圧倒できたのか、という疑問が私の頭の中をさ迷い続けました。

その回答がニコニコ動画の随所にありました。それは森下九段が継ぎ盤を動かしながら苦悩している数多の場面です。

棋士は指してみて初めてそれが悪手だったという場面に何度も遭遇しています。前回の電王戦に限ってもツツカナ戦での森下九段の『8五桂馬』やPonanza戦での屋敷九段の『8一成香』がそうです。

このような事象が起こってしまう主たる理由、それが疲労、焦り、老い等で各々が持つ脳内将棋盤が不鮮明になり、正しくその後を予想できなくなったからでした。

それ故に継ぎ盤を十分な時間で検討することにより、中盤、終盤に自分の脳内将棋盤を鮮明にして、より正確に未来予想図を描くけるのではないか。このような前提をともに森下九段は今回のリベンジマッチに挑み実証してみせました。

しかし、これだけでは元々あった棋力差は埋まらないという考えが残りますが、そもそも棋力差とは脳内将棋盤がいかに先々まで鮮明に保持できるかどうかの差だったと置き換えると納得がいきます。それ以上の差は未来への構想や着想が正しく描けるかどうかというものでプロになると一部のTOP棋士を除けば大方差は無いように思います。

つまり将棋とは過去の記憶とともに未来の記憶も鮮明に描けるものが強くなるという結論が得られます。このことを森下九段は実証してくれました。今後は他の棋士でも同様なのかどうか検証を待つことにします。

今回の試みは通常の対局とは全く異なる形式だったため、では次回の電王戦に出る五名の棋士たちにとって参考になるかどうかは分かりませんが、なにはともあれ、コンピュータソフトとプロ棋士はどちらが強いのか?という疑問に対しまた新たな一石を投じる形となったのは確かです。

まだまだ今年も電王戦は注目ですね。

※2015年1月3日時点では勝敗はまだ決していませんが、便宜上森下九段勝勢≒勝ちと本ブログでは判断しています。ご了承ください。
先日、日経新聞にポナンザ開発者山本一成氏による羽生四冠vs豊島七段との王座戦観戦記が12シリーズに渡って掲載された。面白い内容だったのでこの新聞を取ってない人は見れないな~と正直勿体無く思っていたが、その新聞社の許可により当人のブログでも掲載できるようになったようで、これは好手だった。

さて、その観戦記中で興味深かった箇所があったので紹介したい。それは人間のコンピュータよりも優れる能力とは?というテーマで書かれた箇所である。

「ポナンザは秒間500万局面程度探索できる。一方の人間はせいぜい秒間2,3局面だ。局面を正確に評価する能力も年々高まり、ポナンザは多くの局面でそれなりに正しい判断ができるようになった。それなのに、なぜ人間はポナンザに対抗できるのだろう。

それは人間がコンピュータにない武器を幾つか持っているからだ。その一つに嗅覚とでもいうべきものがある。指了図の▲8八桂がまさにそれ。・・コンピュータはここの合駒が桂馬である必要性を必ず読みの中に求める。人間は必ずしもそうする必要性はない。匂いで打てるのだ」

「・・ポイントは▲7六歩と打った時に8八に桂がいて7六の地点が猛烈に硬く、詰めろが続かないこと。8八の桂はこの▲7六歩の32手前に打たれたものだ。論理では決してたどりつけなかった手が32手後に意味を持つ。これが人間の業(わざ)だ。とてもとても興味深い!!

私はポナンザが人類最高の知性と戦うところを見てみたい。ポナンザに戦う舞台を用意してあげたい。そのためにもっとポナンザを強くしよう。細かい改良も大事だが、やはりリスクを取った大きな改良を目指そう・・」

TOPに立つものは、更にその上に行くためには他の模倣だけでは限界があり、その限界を超えるには、暗中模索の中であっても前に進むためにリスクを取った選択をしなければならない。山本氏はその羽生の第一人者のたる境地を最強のコンピュータソフトポナンザを開発した自分自身に重ね合わせ、今後の強化のためにリスクを取ることを覚悟している。

第2回電王トーナメントの決勝戦で起こった逆転劇は、まさにそのリスクを取った強化策(選択肢の大胆な枝刈り)が仇となった。しかしそれでも彼は前に進むことを諦めない。なぜならその先に羽生名人との対戦が待っていると強く信じているからだ。

私は前の記事に羽生名人に挑戦状を叩きつけようとした彼の振舞いを“まるで直訴のようだ”と書いた。しかし今後も自らリスクを背負って開発を続け、この戦国乱舞の中、捲土重来、再び電王に返り咲けたなら、もうその資格があると認めざるを得ない。


このままコンピュータが進化を重ねていくと人間が全く歯が立たなくなるのか、それともますます人間が人間たる所以の潜在能力を発揮して、人間自身も進化を遂げ続けるのかは神のみぞ知る。その行く末を固唾を呑んで見守りたい。

昨日ラジオ 「午後マリ」 を聞いていたら、作家の井沢元彦氏がゲストで出ていて、外国人に日本の文化をどううまく紹介するかという話題になっていてそこに将棋が取り上げられていました。以下その要旨です。

「私が紹介するのは二つ。それは『折り紙』と『将棋』です。まず『折り紙』だが、外国人にとってはハサミやテープ、のりなどを使って、しかも丸かったり、三角だったりする紙を使うことが表現の自由であり、それが面白さに繋がると見なすが、日本人にとっては道具は一切使わないで、正方形の様々な色紙を単純に折るといった制限を付けることによって逆にその中でいかに無限の可能性を見つけられるかということが面白さに繋がっている。それは五・七・五という文字の制限内で無限の面白さを見せる俳句の世界にも通ずるものがある。

そして『将棋』。世界には欧米のチェスや中国の中国将棋など類似のゲームがたくさんあり、どれもインドのチャトランガというゲームをルーツに持っているのだが、その中でも『将棋』が一番面白い。

なぜなら『将棋』はその中でも唯一取った駒を再度使えるゲームだからです。他のゲームは最後になると駒がどんどん少なくなり静かに収束していくが、将棋は逆に非常に複雑かつエキサイティングになっていきます。

それを証拠にチェスは今から20年前にすでにコンピュータがチャンピオンを負かしているが『将棋』の名人には未だに勝てていない。つまりそれほど将棋は尊い日本文化なんです。

また将棋の駒がなぜ五角形になっているか分かりますか?他のゲーム、チェスを例に出すと白と黒に駒が分かれているため一度取った駒を再利用しようとしても敵なのか味方なのかが分かりづらい。将棋の駒は再利用してもどちらの駒なのかが分かりやすいように前方部分を尖らせているんです。これは凄く画期的なことなんです。

更には将棋の駒に書いてある文字をよく見ると玉、金、銀といった装飾品や桂はシナモンなどというように実はお金のやり取りをしている。つまり駒を再利用できることからも将棋は他のゲームのような生き死にの絡む戦争ゲームではなく、実に平和的なマネーゲームであるということです」


と、このような話をされていました。
これってご自身の著書にて詳しく書かれていたんですね。詳しくはこちらのサイト日本の将棋の起源とケガレ思想による将棋のマネーゲーム化:『逆説の日本史8』の雑感でうまくまとめられていたのでこちらをご参照下さい。

この中で気になったのは『駒が再利用できる将棋は、他のゲームと違い、名人がコンピュータに負けていない尊い日本文化』という箇所です。

今のコンピュータの実力から考えると、名人に一矢入っても全然おかしくないですから、そうなると日本文化という視点からも大きな問題が発生するということなんですね。

Ponanzaの開発者山本氏が『羽生名人を倒せると信じてます』とNHKの科学番組『ZERO』 で強く主張されていましたが、やはりその挑戦行為自体が日本文化と真っ向から衝突するわけで、反発も大きい理由が分かります。

誰もが見たいが、でも実現してほしくない羽生名人vsコンピュータ。そういえば羽生名人は常々誰と将棋が指したいかという質問に対して『升田幸三』と答えています。

やねうら王ブログ にもあるように、現在のコンピュータは少ない棋譜からも多くの学習ができる能力があるようなので、升田幸三の棋譜のみを読み込んで、『升田幸三コンピュータソフト』を作るということも出来るんではないでしょうか?

そして将棋会館にお試しコーナーを設置しておけば、こっそりと羽生名人が対戦してくれるかもしれませんね。当然勝ち負け度外視ですが。とこんな妄想も書き立てられたラジオ番組でした。

あ、これって天岩戸に隠れた天照大御神を誘い出す話にも何となく似ているな~(笑)  
第2回電王トーナメントが興奮の冷めやらぬ内に終わりました。

コンピュータ同士の指す将棋はつまらない。終盤にはミスがないため、どんどん差が広がって最後は大差になっている。と、そんな話はどこ吹く風といったように非常に盛り上がった三日間でした。

特にAWAKEとPonanzaとの決勝戦で起こった逆転劇は将棋というものの深淵さを垣間見れた至福の時でもありました。

それにしてもAWAKEの読みの深さには驚かされましたね。4三に角の成り込んだあの場面でははっきりとPonanzaに読み勝っていましたので。

そう。改めて気付かされます。将棋とは最後に相手よりも正しく深く読んだ者が最終的に勝者になるゲームだということを。

さてここで電王トーナメントの結果を見てみます。

第1位 AWAKE 開発:巨瀬亮一
第2位 Ponanza 開発:山本一成ほか
第3位 やねうら王 開発:磯崎元洋ほか
第4位 Selene 開発:西海枝昌彦
第5位 Apery 開発:平岡拓也ほか

なんという面子でしょうか。昨年のコンピュータ選手権のチャンピオンが5位にいます(笑)。つまり今回はどれもPonanza級のソフトだということです。この中でも私が一番注目しているのはいつも突貫工事でそれでいて結果を残すやねうら王です。棋士に貸し出すまでゆうに1カ月はあるので、どこまで強くできるかが見物です。

さて11/26に対戦カードが発表されるようですので、そのあとにまた勝敗予想などをしたいと思います。それにしてもどのコンピュータソフトも一筋縄では行かないな~。