こちらは “「チャン・ツィイー」 は言いにくい” の2でござる。 1 は↓
http://ameblo.jp/nirenoya/entry-10557468541.html
【 si 「スー」 の後輩たちは xi 「シー」 になってしまった 】
〓ここで、少々、ムズカしいハナシを申し上げます。近ごろは、すっかり漢字が流行 (はや) りですが、「チョロい漢字本」 にはゼッタイ書いていない根本的なハナシです。
〓 NHK の 「シルクロード」 のシリーズなんぞを見ていると、その出発点は、いつも、中国の 「西安」 ですね。
〓この都市は、唐 (トウ) の首都 ── 当時の名は 「長安」 ── であり、遣唐使として送られた留学生たちは、ここで中国語を学びました。日本の漢字の音読みの根幹をなす 「漢音」 (カンオン=唐の時代の漢字音) は、ここから持ち帰られたものです。
〓「西安」 は日本語では “セイアン” と言い、また、現代中国語音で “シーアン” と言います。「セイ」 と 「シー」 の違いは、1200年のあいだの中国語音の変化を示しています。
【 西安 】
Siei 1 - ɑn 1 [ スィエイアヌ ] 中古音 (5~11世紀) ※遣唐使の日本人留学生が学んだ音
↓
Si 1 - an 1 [ スィーアヌ ] 近代音 (12~19世紀)
↓
Xīʼān [ ɕi(:)an ] [ シーアヌ ] 現代音
※標準中国語では母音の長さは意味を持たない。ゆえに、一般に、発音表記では長音記号を書かない。
ロシア語、イタリア語なども同様である。
カナで 「シーアン」 と書かれるとおり、中国語では、開音節の単母音は長くなるのが普通である。
〓つまり、「セイアン」 という日本語の読みは、唐の時代の [ sieiɑn ] [ スィエイアン ] を写したものなんですね。
〓ところで、観察力のあるヒトは、近代音に [ si ] [ スィー ] があらわれているのに気づいたと思います。確か、「四・死・私」 など、もともと、 [ si ] の音だった漢字は、現代では [ sɿ ] [ スー ] になるんでしたよね。じゃあ、なぜ、「スーアン」 じゃないのか。
〓実は、これにはキチンとした法則があります。
現代中国語で、
ci [ tsʰɿ ] [ つー ]
zi [ tsɿ ] [ ツー ]
si [ sɿ ] [ スー ]
となっている文字は、「中古音」 (5~11世紀) の段階で、すでに、
[ si ] [ スィー ]、 [ zi ] [ ズィー ] などと発音されていたもの
に限られるのです。
〓「西」 のように、現代語で xi [ ɕi ] [ シー ] となっている文字は、「中古音」 の次の 「近代音」 で [ si ] [ スィー ] となったものです。
〓つまり、
「中古音」 (5~11世紀) の si 「スィー」 は硬口蓋化を避けて si [ sɿ ] 「スー」 になったのに、
「近代音」 (12~19世紀) の si 「スィー」 は硬口蓋化して xi [ ɕi ] 「シー」 になってしまった
のです。
〓例として、いくつかの文字の音の変遷を示してみましょ。いずれも、「中古音」→「近代音」→「現代音」 の順です。
■ 口蓋化を避けたグループ。「近代音」 ですでに 「イ」 が 「ウ」 ï になっている。
【 四 】 si 3 [ スィー ] → sï 4 [ スー ] → sì [ sɿ ] [ スー ]
【 私 】 si 1 [ スィー ] → sï 1 [ スー ] → sī [ sɿ ] [ スー ]
【 糸 】 sĭə 1 [ スィア ] → sï 1 [ スー ] → sī [ sɿ ] [ スー ]
【 寺 】 zĭə 3 [ ズィア ] → sï 4 [ スー ] → sì [ sɿ ] [ スー ]
■ 口蓋化してしまったグループ。「近代音」 で si- を有していた文字。
【 西 】 siei 1 [ スィエイ ] → si 1 [ スィー ] → xī [ ɕi ] [ シー ]
【 息 】 sĭək 4 [ スィアック ] → si 3 [ スィー ] → xī [ ɕi ] [ シー ]
【 夕 】 zĭɛk 4 [ ズィエック ] → si 2 [ スィー ] → xī [ ɕi ] [ シー ]
【 習 】 zĭěp 4 [ ズィエップ ] → si 2 [ スィー ] → xí [ ɕi ] [ シー ]
…………………………
【 星 】 sieŋ 1 [ スィエン ] → siəŋ 1 [ スィアン ] → xīng [ ɕiŋ ] [ シン ]
【 心 】 sĭěm 1 [ スィエム ] → siəm 1 [ スィアム ] → xīn [ ɕin ] [ シヌ ]
【 小 】 sĭɛu 2 [ スィエウ ] → siau 3 [ スィアウ ] → xiǎo [ ɕiaʊ ] [ シアオ ]
【 象 】 zĭaŋ 2 [ ズィアン ] → siaŋ 4 [ スィアン ] → xiàng [ ɕiɑŋ ] [ シアン ]
〓どうでしょう。「西、息、夕、習」 といった字が、「四、私、糸、寺」 などより、ワンテンポ遅れて [ si ] [ スィー ] になっているのがわかりますね。また、そうした、ワンテンポ遅れた字は、通例、日本語に採り入れられていないので、音読みも古い時代の音で 「セイ、ソク、セキ、シュウ」 などとなっています。
〓日本語の漢字の音読みと、現代中国語音の違う理由がナントナクわかったでガショウ?
〓「中古音」 は一見して日本語の音読みと似ていないようですが、これもヤミクモに似ていないのではありません。たとえば、
【 西 】 siei [ スィエイ ] → 「セイ」 ※介音 i [ j ] を落とす
【 小 】 sĭɛu [ スィエウ ] → 「セウ」 ※介音 i [ j ] を落とす
【 象 】 zĭaŋ [ ズィアン ] → 「シヤウ」 ※ [ ŋ ] は 「ウ」 で写す
〓中古音で母音が3つ並んでいるような場合、音をツマむ例が多く見られます。
〓「小」、「象」 の場合、もとの音 「セウ」、「シヤウ」 が 「ショウ」 となるのは、日本語内部での音変化です。
〓戦前までは、日本でも、
小学校 「セウガクカウ」
象徴 「シヤウチヨウ」
と書いていました。つまり、
「セウ」 sheu → 「ショー」 shō
「シヤウ」 shau → 「ショー」 shō
という変化が、日本語で起こったわけです。
〓また、「象」 を “ゾウ” と読むのは、「シヤウ」 という音を留学生が持ち帰る以前に、日本に流通し始めていた読み (呉音 ゴオン) です。当時の表記と音は “ザウ” です。これとて、 zĭaŋ の介音 (カイオン) i を落とした音ですネ。
〓以上のことを、もう少し詳しくまとめますと、「中古音」 (5~11世紀) で母音が i もしくは ĭe [ イエ ], ĭə [ イア ] だった文字は硬口蓋化を避けて [ ɿ ] [ ウー ] になったんです。
【 i を含む音節が硬口蓋化を避けた例 】
[ tsʰ / ts / dz / s / z / tʃʰ / tʃ / dʒ ] + [ i / ĭe / ĭə ]
[ tsʰi ] [ つぃー ] 次 → ci [ tsʰɿ ] [ つー ]
[ tsi ] [ ツィー ] 資姿姉恣 → zi [ tsɿ ] [ ツー ]
[ dzi ] [ ヅィー ] 茨 / 自 → ci / zi [ tsʰɿ / tsɿ ] [ つー / ツー ]
[ si ] [ スィー ] 私死四 → si [ sɿ ] [ スー ]
…………………………
[ tsʰĭe ] [ つぃエ ] 雌此 → ci [ tsʰɿ ] [ つー ]
[ tsĭe ] [ ツィエ ] 髭紫 → zi [ tsɿ ] [ ツー ]
[ dzĭe ] [ ヅィエ ] 疵 / 漬 → ci / zi [ tsʰɿ / tsɿ ] [ つー / ツー ]
[ sĭe ] [ スィエ ] 斯 / 賜 → si / ci [ sɿ / tsʰɿ ] [ スー ]
[ tʃʰĭe ] [ ちエ ] 差 → ci [ tsʰɿ ] [ つー ]
…………………………
[ tsĭə ] [ ツィア ] 滋子 → zi [ tsɿ ] [ ツー ]
[ dzĭə ] [ ヅィア ] 慈磁 / 字 → ci / zi [ tsʰɿ / tsɿ ] [ つー / ツー ]
[ sĭə ] [ スィア ] 思司伺糸思 → si [ sɿ ] [ スー ]
[ zĭə ] [ ズィア ] 詞辞 / 似寺嗣飼 → ci / si [ tsʰɿ / sɿ ] [ つー / スー ]
[ tʃĭə ] [ チア ] 滓 → zi [ tsɿ ] [ ツー ]
[ dʒĭə ] [ ヂア ] 俟 → si [ sɿ ] [ スー ]
※一部には例外もあります
〓これらの文字は、日本語音が、ほぼすべて 「シ・ジ」 であることから、「中古音」 の期間を通じて [ i ] に合流しつつあったものである、とわかります。
〓そのいっぽうで、「中古音」 で母音が i, ĭe, ĭə 以外であった場合、「中古音」 のあとの時代の 「近代音」 でも
先行する子音も硬口蓋化せず、母音 i の音価も保たれていた
のです。しかし、「現代音」 に移行する際に、こんどは [ i ] を [ ɿ ] に変えず、先行する子音の硬口蓋化を受け入れてしまったんです。
西 siei 1 [ スィエイ ] → si 1 [ スィー ] → xī [ シー ]
星 sieŋ 1 [ スィエン ] → siəŋ 1 [ スィアン ] → xīng [ シン ]
心 sĭěm 1 [ シエム ] → siəm 1 [ スィアム ] → xīn [ シヌ ]
息 sĭək 4 [ スィアック ] → si 3 [ スィー ] → xī [ シー ]
相箱 sĭaŋ 1 [ スィアン ] → siaŋ 1 [ スィアン ] → xiāng [ シアン ]
夕 zĭɛk 4 [ ズィエック ] → si 2 [ スィー ] → xī [ シー ]
習 zĭěp 4 [ ズィエップ ] → si 2 [ スィー ] → xí [ シー ]
象像 zĭaŋ 2 [ ズィアン ] → siaŋ 4 [ スィアン ] → xiàng [ シアン ]
小 sĭɛu 2 [ スィエウ ] → siau 3 [ スィアウ ] → xiǎo [ シアオ ]
――――――――――――――――――――
cf.
四 si 3 [ スィー ] → sï 4 [ スー ] → sì [ スー ]
糸 sĭə 1 [ スィア ] → sï 1 [ スー ] → sī [ スー ]
寺 zĭə 3 [ ズィア ] → sï 4 [ スー ] → sì [ スー ]
俟 dʒĭə 2 [ ヂア ] → sï 4 [ スー ] → sì [ スー ]
〓上の一覧を見ると、
「中古音」→「近代音」 では硬口蓋化が避けられ、
「近代音」→「現代音」 では硬口蓋化が起こってしまった
ということがわかります。同じ言語でも、時代によって音声の変化のしかたが変わることはよくあります。
〓「四・糸・寺」 といった文字は、「近代音」 の段階で、すでに [ sɿ ] [ スー ] という音になっていたために、「現代音」 に移行するときに “硬口蓋化の対象” にならなかったのです。硬口蓋化は [ i ] の前にある子音についてのみ起こるからです。
【 si 「スー」、zi 「ツー」 の i は母音ではない 】
〓ところで、今から 「チャブダイをヒックリ返す」 ようなことを申し上げますが、アァタもついでにヒックリ返らないようにお願いします。
〓実は、
この世に [ ɿ ] などという母音は実在しない
のです。つまり、ピンインであらわされる ci, zi, si の i ですね。
〓先だって、
[ ʅ ] は発音記号 (IPA) に存在しない慣用表記
と申し上げましたが、
[ ɿ ] というのも発音記号 (IPA) に存在しない慣用表記
なのです。
〓スウェーデンの中国語学者に、ベルンハルド・カールグレン Bernhard Karlgren (1889~1978) という人物がいました。近現代の中国語学の泰斗 (たいと) で、近代ヨーロッパの言語を分析した方法論で中国語を研究し、中国語の古代の音声である、上古音 (ショウコオン・ジョウコオン)、中古音の体系を再構築するに多大の貢献をしました。
〓アッシがここに書いている駄文も、カールグレンなくしては成立しませんのです。
〓このカールグレンが、中国語の特殊な音韻 (おんいん) を書き表すのに、
スウェーデン語の方言音を記述するための記号 [ ɿ ], [ ʅ ], [ ʮ ], [ ʯ ]
を導入しました。
[ ɿ ] は c, z, s のあとの 「ウー」 と聞こえる i
[ ʅ ] は ch, zh, sh, r (反り舌音) のあとの 「イー」 と聞こえる i
〓この2つが、北京語を基礎とした標準中国語である 「普通話」 (プートンホワ) にあらわれる音で、 [ i ] という記号の変形です。あとの2つ ── [ ʮ ], [ ʯ ] (円唇母音)── は発音記号 (IPA) [ y ] [ ユ ] (半母音の場合 [ ɥ ]) の変形で、中国語の方言にのみ使われます。
〓繰り返して申し上げますと、
[ ɿ ], [ ʅ ], [ ʮ ], [ ʯ ] などという母音は、物理的に存在しない
のです。存在しないものを、なぜ、発音表記に書くのか?というと、仮にそのようにすると便利だからです。
〓ヨーロッパの中世では、“ゼロ” や “負の数” は 「存在しない」 ので、意味がなく、役に立たない、と考えられていたようですが、しかし、これを 「0」 や 「-」 で表記することで、数学や物理学などが発展したわけです。
〓中国語の z, c, s のあとの i は、もちろん [ i ] ではありません。かといって、 [ u ] (英語のウ) や [ ɯ ] (日本語の東京方言のウ) でもありません。
〓では、カールグレンの慣用表記を使わないとどうなるか、というと、こういう奇妙な表記になります。
ci / tsʰz̩ / 慣用表記 [ tsʰɿ ] [ つー ]
zi / tsz̩ / 慣用表記 [ tsɿ ] [ ツー ]
si / sz̩ / 慣用表記 [ sɿ ] [ スー ]
〓すでに、中国語の発音をマスターしたヒトでも、まさか、 c, z, s のあとで自分が出している i の音が [ z ] だったとは思わないでしょう。
〓中国語は 「近代音」 において、「硬口蓋化」 を避けるあまり、舌を後続の i へと移動することをやめてしまったんですね。なので、
[ tsʰ / ts / s ] の位置のままで息を出し続ける
ということになります。これは方言を含めて、中国語のいちじるしい特徴です。
〓「母音」 というのは、
声が 「閉鎖」 や 「狭め」 (せばめ) による阻害を受けずに発せられたもの
です。するってえと、
舌が [ tsʰ / ts / s ] の位置のまま、狭めをつくっている状態で出ている音は 「母音」 ではない
ということになります。そして、その出ている音は、まごうことなく、
[ s ] の舌の位置のままで、さらに声が加わっているので、有声音の [ z ] になる
という寸法です。
/ z̩ / のごとくに / ˌ / を付けるのは、これが音節を成す
という意味です。
〓ニンゲンの発する音節の中には、子音しか存在しないのに、そこに 「音節がある」 と解釈できる場合があります。たとえば、
little [ 'lɪtɫ̩ ] [ ' りトる ] 「小さい」 英語 ※ [ 'lɪtəɫ ] の [ ə ] の落ちた代償
rhythm [ 'ɹɪðm̩ ] [ ' リずム ] 「リズム」 英語
haben [ 'ha:bm̩ ] [ ' ハーブム ] 「持っている」 ドイツ語 ※ [ 'ha:bən ] の日常的な発音
sagen [ 'za:ɡŋ̍ ] [ ' ザーグン ] 「言う」 ドイツ語 ※ [ 'za:ɡən ] の日常的な発音
krtek [ 'kr̩tɛk ] [ ク ' ルテク ] 「モグラ」 チェコ語
本 [ hoɴ̩ ] [ ホン ] 日本語
五 [ ŋ̍ ] [ ン ] 「五」 広東語
といったものです。普通話 (プートンホワ) の ci, zi, si のあとの i は、まさに、
音節を成す [ z ]
なのです。
〓中国語の音節は、単母音の開音節では長くなりますので、物理的な音声は、
ci [ tsʰzzz ] [ つー ]
zi [ tszzz ] [ ツー ]
si [ szzz ] [ スー ]
のようになります。
〓たとえ、実際に起こっている発音がどうであろうと、
それをニンゲンが、どういう 「ツモリ」 で発音しているか
というのは別の問題です。そこで、ニンゲンの 「ツモリ」 を斟酌 (しんしゃく=くみ取る) すると、
ci [ tsʰɿ ] [ つー ]
zi [ tsɿ ] [ ツー ]
si [ sɿ ] [ スー ]
というカールグレン式の表記となるわけです。そして、このほうが、どれが母音とみなされているのかハッキリするのでわかりやすいんですね。
〓同様に、 chi, zhi, shi, ri といった反り舌の音節の i も母音ではありません。
〓「反り舌音」 は、もともと、反り舌でなかったものが 「北方方言」 で反り舌化したもので、そのため、成り行きで i との相性が悪くなってしまったのです。
〓なぜ、相性が悪くなったかというと、「反り舌音」 は舌の真ん中をくぼませる子音であり、舌の真ん中が出っ張る母音である i とは、
舌の形が正反対
なのです。というより、反り舌の位置から i に瞬時に移動するのは不可能です。
〓ロシア語も、もともと、存在しなかった反り舌音を生じた言語です。ロシア語には、 ш [ ʂ ], ж [ ʐ ] という2つの反り舌音があります。ポーランド語では、さらに、 cz [ ʈʂ ] という反り舌音が加わります。
〓ロシア語は、反り舌子音のあとに i が来る場合、やはり、母音 i の質を変えることで対処しています。
машина mashína [ mʌ'ʂɨinə ] [ マ ' しーナ ] 「自動車」
〓つまり、反り舌の 「シ」 である [ ʂ ] を発音したあと、とりあえず、その位置で [ i ] よりも奥寄り (中舌) の母音 [ ɨ ] を出しておいて、この母音を伸ばしながら [ i ] へと移動するのです。
〓ロシア語を学んだヒトなら、「ああ」 とガテンがゆくと思いますが、二人称の代名詞、
ты ty [ 'tɨi ] [ トゥイ ] 「きみ」
Вы vy [ 'vɨi ] [ ヴイ ] 「あなた」
は日本人の耳にも 「トゥイ」、「ヴイ」 と聞こえます。それというのも、ロシア語では、舌が [ ɨ ] [ ウ ] から [ i ] [ イ ] へと急速に移動するからです。
〓ところが、中国語は、全然、別の対処法を編み出しました。それは、 c, z, s の場合と同じく、 ch, zh, sh, r を発音した位置から 「舌を移動させない」 というあきらめたような選択でした。
〓ということは、 ci, zi, si の場合と同じく、
ch, zh, sh, r のあとに発せられる i は母音ではない
ということになります。なぜなら、舌は子音の位置を保っているため、舌による狭めが維持されるので、
閉鎖、狭めによって阻害されて出される音は母音ではない
という規則に照らして、「子音」 と判断されるからです。
〓実際に、どんな音であるかというと、こんなんですよ。
chi / ʈʂʰɻ̍ / 慣用表記 [ ʈʂʰ ʅ ] [ ちー ]
zhi / ʈʂɻ̍ / 慣用表記 [ ʈʂ ʅ ] [ チー ]
shi / ʂɻ̍ / 慣用表記 [ ʂ ʅ ] [ しー ]
chi / ʐɻ̍ / ないし / ɻɻ̍ / 慣用表記 [ ʐ ʅ / ɻ ʅ ] [ じー / リー ]
〓ありていに書くとキッカイこのうえありまへん。
[ ɻ ] というのは、英語の舌を巻き上げる r の音 [ ɹ ] に
“反り舌” であることを示す補助符合 [ ̢ ] が付いたもの
です。これは、もちろん、普通話 (プートンホワ) の r の音そのものです。また、米語の語末の -er [ ɚ ] (母音字) ときわめて似た子音です。
〓つまり、ピンインで書くと、
chi = chr / zhi = zhr / shi = shr / ri = rr
ということになります。
〓こちらも物理的な音をありのままに表記しますと、
chi [ ʈʂʰɻɻɻ ] [ ちー ]
zhi [ ʈʂɻɻɻ ] [ チー ]
shi [ ʂɻɻɻ ] [ しー ]
ri [ ʐɻɻɻ / ɻɻɻɻ ] [ じー / リー ]
となります。
〓こういう表記もまぎらわしいうえに、ニンゲンの 「ツモリ」 が反映されていません。それがゆえに、中国語学では発音記号 (IPA) の規則を無視してまで、
chi [ ʈʂʰʅ ]
のように書くわけです。
〓けっきょく、「章子怡」 という名前は、次のように発音されているんです。
章子怡 Zhāng Zǐyí
音韻表記 / ʈʂɑŋ tsz̩.i / ※ [ . ] は音節の切れ目をあらわす
音声表記 [ ʈʂɑŋ tsz:i: ]
慣用表記 [ ʈʂɑŋ tsɿi ]
〓 Zĭyí は物理的には 「ツズーイー」 です。なので、「ツィイー」 というカナ書きには、ナンの根拠もないわけです。