「イブン・バットゥータ」 と 「ドナルドダック」。 | げたにれの “日日是言語学”

げたにれの “日日是言語学”

やたらにコトバにコーデーする、げたのにれのや、ごまめのつぶやきです。

   げたにれの “日日是言語学”-イブン・バットゥータ




〓先日、11世紀のシチリア島のエミール (侯) に 「イブン・アル=ハワース」 という人物がいて、この人の本名がわからないんじゃ、と申しゃげました。

〓以前、“アラビアのロレンス” のところで、現代のアラビア語圏における名前の構成について説明しましたが、これが、古い時代になりますと、もっと、格式高く、かつ、名乗り方も本格的でありました。端的に言うと、


   正式な名前がやたらに長い


のです。
〓また、その名乗り方も、現代の西欧式社会におけるような、個人を特定するための “システマティックな姓名方式” ではありません。で、ここで、ひとつ、演習のつもりで、


   イブン・バットゥータ


の名前を解析してみやしょう。というワケなんでござんす。





   げたにれの “日日是言語学”-イブン・バットゥータの切手
     祖国 モロッコの発行したイブン・バットゥータの切手。ラテン文字の綴りが IBN BATOTA となっている。



  【 イブン・バットゥータ 】


〓マルコ・ポーロに少し遅れ、14世紀のイスラーム世界に登場した大旅行家に、


   イブン・バットゥータ  ابن بطوطة 
       ʼibnu Baṭṭūṭa(tin) [ イブヌ バッ ' とぅーた(ティン) ]


がいます。冒険家と呼び換えてもよござんす。


〓この旅行家は、「イブン・バットゥータ」 として知られているにもかかわらず、これは本名ではないんです。

〓アラビア語圏の人物の名前というのは、とりわけ、昔の人物ほど、「当人の個人名」 ではない名前で知られていることが多ござんす。そもそも、アラブ世界では、


   人を、その個人名を使って呼ぶことが失礼であった


のですね。


〓直接、当人の名前を口にせず、「父称」 (ナサブ=“○○の息子・娘”) や 「子称」 (クンヤ=“○○の父・母”) で呼ぶことが “敬意” の表明であったり、語調を和らげたりしたんでしょう。
〓日本で、「○○ちゃんのおかあさん」 と呼んだり、「○○ちゃんパパ」 などと呼ぶ感覚と似ているところがあるかもしれません。


   بطوطة baṭṭūṭa [ bɑtˁ 'tˁu:tˁɑ ] [ バッ ' とぅーた ]


というのは、「カモちゃん」 という意味です。 ابن ʼibn [ イブン ] というのは、“父称” をつくる際に使われるオキマリの 「息子」 という単語なので、


   「イブン・バットゥータ」「カモちゃんの息子」


という意味です。後ろの 「バットゥータ」 は属格 (所有格) であり、先行する名詞を修飾します。英語に置き換えるなら、


   son battuta's


という語構成です。

〓もちろん、これは本名ではなく、「アダ名」 です。つまり、「父称」 の形式をしているが、「父称」 ではありません。


〓なぜ、このようなアダ名なのかと言えば、おそらく、


   “渡り鳥”“旅行家”


だからなんでしょう。日本でも、寅さんみたいなヒトは 「渡り鳥」 ですよね。


〓アラビア語は、英語などヨーロッパの言語と同様に、「カモ」 と 「アヒル」 を区別しないようです。




   げたにれの “日日是言語学”-イブン・バットゥータ・モールの入口

    世界有数の規模を誇るドバイのショッピングモール “イブン・バットゥータ・モール” の入口。

   مركز تسوق إبن بطوطة márkaz tasawwū́q ʼibn Baṭṭū́ṭa “マルカズ・タサウウーク・イブン・バットゥータ”。

    英語式に ابن بطوطة مول ʼibn Baṭṭū́ṭa mōl “イブン・バットゥータ・モール” とも言ってしまうらしい。




〓ここで、ちょいとアラビア語の文法的なハナシを聞いてもらいやしょう。


〓アラビア語では、動物・植物・自然物を指す単語が 「集合名詞」 である場合が多ござんす。英語にも集合名詞というのはあります。


   people, family, police 「人の集合体」
   fish, fruit 「自然物の集合体」 (種類を言う場合のみ複数形をとる)
   hair 「細かい物の集合体」 (毛1本を指して a hair とも言いうる)
   furniture, wear 「製品の集合体」 (1つの衣服なら a garment と言う)


〓しかし、アラビア語の場合は、もっと広汎に 「集合名詞」 が存在し、女性名詞をつくる語尾  -a(tun) を付けることで、カンタンに “1つの~” と言い表すことができます。すなわち、


   بط baṭṭ(un) [ ' バッと ] 「カモ、アヒル」
    +
   -ة  -a(tun)  「個別名詞語尾 (女性名詞語尾)」
    ↓
   بطة baṭṭa(tun) [ ' バッた ] 「1羽のカモ、1羽のアヒル」
       ※ ( ) 内は口語で発音されない語尾


となります。





  【 アラビア語の愛称 】



〓次に、アラビア語の 「愛称」 のつくり方をベンキョしましょう。アラビア語は、すべて、「語根」 が派生の基礎になります。語根を C1 - C2 - C3 (Cは何らかの子音) とすると 「愛称」 は、


   C1 a C2C2 ū C3 (a)
      ※語末の -a は、最後の子音が [ r ] もしくは、“喉音” (こうおん=喉で出す子音) の場合のみ
       現れます。すなわち、 ح [ ħ ], خ [ x ], ر [ r ], ع [ ʕ ], غ [ ɣ ], ه [ h ], ء [ ʔ ] の7音です。


となります。


〓たとえば、「ハッサン」、「フサイン」 という名前ならば、どちらも語根は ḥ - s - n なので、愛称は 「ハッスーン」 となります。


〓詳しく見てみますか。

〓まず、


   حسن ḥasuna [ ' はスナ ] 「凛々しい顔立ちの、美しい、よい」


という動詞があります。「動詞」 です。つまり、 to be handsome です。


〓先だっても申し上げましたが、この動詞から 「能動分詞」 が派生します。 -ing 形ですね。これは、すなわち、そのまま 「形容詞」 にもなります。


   حسن ḥasan [ ' はサン ] 「凛々しい顔立ちの、美しい、よい」


〓能動分詞の第2語根、つまり、真ん中の子音を重子音 (促音) にすると、「強調形」 あるいは、人を指す名詞に転用されている場合は 「その能力を職業にする人」 を指します。つまり、その性質がズバ抜けていることを示すわけです。なので、


   حسن ḥassan [ ' はッサン ] 「とても凛々しい顔立ちの、とても美しい、とてもよい」
       ※アラビア語の困った特徴として、母音を記さないので、表記上は変化がない


となります。この形容詞を男子名に転用したのが Ḥassan 「ハッサン」 という名前です。


〓アラビア語にも 「指小形」 があります。「小さな~」 という言い方です。ドイツ語の -chen, -lein とか、フランス語の -et, -ette、ロシア語の -ка、ウチナーグチの “~グヮー” のたぐいですね。


〓アラビア語の場合は、単語の語根を C1 - C2 - C3 としますと、


   C1 u C2 ay C3


で指小形をつくります。なので、 Ḥassan 「ハッサン」 の指小形は、


   حسين Ḥusayn [ ふ ' サイン ] 「フサイン」。※原義は 「小さなハッサン」


となります。 [ ai ] という二重母音は、口語では、 [ ei ], [ e: ] などと発音されるので、それぞれの地方ごとに、「フセイン」、「フセーン」 などとなります。
〓この 「小さなハッサン」 という言い方が、そのまま別の名前として独立したのが 「フサイン」 です。


〓そして、この両方の名前からは、同一の愛称ができます。語根が同じなので、同一になるんですね。


   حسون Ḥassūn [ はッ ' スーン ] 「ハッスーン」。※「ハッサンちゃん、フセインちゃん」 の意。


〓アラビア語圏の人たちがラテン文字で書くときは、Hassun とは書きません。英語風に Hassoon と書くか、もとのフランス語圏ならば、Hassoun(e) となります。



〓アラビア語圏でポピュラーな女子名に


   فاطمة Fāṭima [ ファー ' てぃマ ] 「ファーティマ」


があります。ナニやらいろいろな音が並んでいますが、やはり、語根 f - ṭ - m だけを抽出して愛称をつくります。すなわち、


   فطوم faṭṭūm [ ファッ ' とぅーム ]


〓そして、もとの名前にあった女性語尾  -a(t) を戻します。よって、


    ↓
   فطومة Faṭṭūma [ ファッ ' とぅーマ ] 「ファットゥーマ」


となります。口語では、愛称の語末の -a を落とす傾向があるらしく、


   فطوم Faṭṭūm [ ファッ ' とぅーム ] 「ファットゥーム」


を愛称にしている例も多いようです。



〓4語根の名前の場合は、


   C1 - C2 - C3 - C4 → C1 a C2C3 ū C4


で愛称とします。つまり、第2語根を重子音にするかわりに、第2・第3語根を並べるわけです。



   إبراهيم ʼIbrāhīm [ イブラー ' ヒーム ] 「イブラーヒーム」
    ↓
   برهوم Barhūm [ バル ' フーム ] 「バルフーム」



〓「イブラーヒーム」 はアラビア語起源ではなく、『旧約聖書』 (ヘブライ語) の 「アブラハム」 を借用したものです。それでも愛称ができちゃいます。




〓ここで、「バットゥータ」 に戻りましょ。


〓「カモ」 の語根は b - ṭ - ṭ なので、愛称はこうなります。



   بطة baṭṭa(tun) [ ' バッた ] 「1羽のカモ」
    ↓
   بطوطة baṭṭūṭa(tun) [ バッ ' とぅーた ] 「1羽のカモちゃん」
      ※最後の -a は愛称の語末音ではなく、ة が接尾して現れた母音です。



〓ね、「イブン・バットゥータ」 が “カモちゃんの息子” だという意味がわかりましたね。


〓ところで、ここから、もう1つマジックをお見せします。



   بط baṭṭ(un) [ ' バッと ] 「カモ、アヒル」
    ↓
    ↓   ※「愛称」 をつくる
    ↓
   بطوط baṭṭūṭ(a) [ バッ ' とぅーと ] 「ドナルドダック」 Donald Duck



〓なるほど、「アヒルちゃん」 だから “ドナルドダック” でしょう。さて、ここからが見ものです。



   بطوط baṭṭūṭ(a) [ バッ ' とぅーと ] 「ドナルドダック」 Donald Duck
    +
   -ة -a(tun)  「女性名詞語尾 (個別名詞語尾)」
    ↓
   بطوطة baṭṭūṭa(tun) [ バッ ' とぅーた ] 「デイジーダック」 Daisy Duck



      げたにれの “日日是言語学”-ドナルドダックとデイジーダック


〓つまり、アラビア語においては、「イブン・バットゥータ」 の “バットゥータ” は、そのまま、ディズニーのキャラクター 「デイジーダック」 の呼び名でもある、ということなのです。
〓こういうバッティングが起きるのは、アラビア語において、「個別名詞」 をつくる語尾と 「女性名詞」 をつくる語尾がいっしょだからなのです。






  【 イブン・バットゥータの本名 】


〓ところで、「イブン・バットゥータ」 の本名はナンでしょう。これが、意外にチャンと調べることができない。アラビア語特有の 「アダ名」 とか 「クンヤ」 (子称) などがあり、非アラビア語圏では、ナンの説明もなく、これらをつなげるので、誰にも意味のわからないような、ただただ長いヒッチャカメッチャカな名前になるのです。


〓たとえば、英語版の Wikipedia では、


   أبو عبد الله محمد ابن عبد الله اللواتي الطنجي بن بطوطة‎
   Abu Abdullah Muhammad Ibn Abdullah Al Lawati Al Tanji Ibn Battuta


を full name としています。日本版の Wikipedia では、


   Abū Abd allāh Muhammad ibn Abd allāh ibn Muhammad al-Rawātī al-Tanjī


を “全名” としています。


〓いずれも表記は 「ママ」 です。日本語版にはアラビア語表記がありません。



〓ならば、アラビア語版 Wikipedia ではどうなっているか。


   محمد بن عبد الله بن محمد الطنجي
     Muḥammadu bnu ʻAbdi-llāhi bni Muḥammadi ṭ-Ṭanjī(yu)
     [ ム ' はンマドゥ ブヌ ぁアブディッ ' らーヒ ブニ ム ' はンマディ ッタンヂー(ユ) ]
     「ムハンマドの息子のアブドゥッラーの息子のムハンマドでタンジール人」



〓とりあえず、これが本名ということですね。必要十分な4部構成です。


   Muḥammad(un) [ ム ' はンマド ] 「ムハンマド」。本人の名前
   ʼibnu ʻAbdi-llāh(i) [ イブヌ ぁアブディッ ' ラーふ ] 「アブドゥッラーの息子」。父称
   ʼibnu Muḥammad(in) [ イブヌ ム ' はンマド ] 「(アブドゥッラーが) ムハンマドの息子」。祖父称
   ʼaṭ-Ṭanjī(yu) [ アッタン ' ヂー ] 「タンジール人」。ニスバ



〓スッキリしてますね。さすが、アラビア語版。この名前を主語にして、


   عرف بابن بطوطة 「イブン・バットゥータの名で知られた」


と説明しています。つまり、英語版 Wikipedia のように、ナンでも欲張って full name にヒッ付けていったんでは、ナニがナンダカわからなくなります。


〓英語版にある al-Lawātī というのも、 aṭ-Ṭanjī と同様にニスバです。日本語版では、LR を綴りまちがえています。これら、「ニスバ」 と呼ばれるものは、先頭の 「ムハンマド」 と同格の名詞化された形容詞です。
aṭ-Ṭanjī 「アッタンジー」 は、「タンジール人」 という地理的な出身を述べるものですが、al-Lawātī 「ラワート族の一員」 というのは部族の出身を述べるものです。


   اللواتي ʼal-Lawātī(yu) [ アッらワー ' ティー ] 「ラワート族の男」


〓「イブン・バットゥータ」 のアラビア語圏で見つかるいちばん長い名前はこれでした。



   محمد بن عبد الله بن محمد بن إبراهيم بن عبد الرحمن بن يوسف اللواتي
   من أهل طنجة، يكنى أبا عبد الله، ويعرف بابن بطوطة


   Muḥammadu bnu ʻAbdi-llāhi bni Muḥammadi bni ʼIbrāhīma bni ʻAbdi-r-Raḥmāni bni Yūsufi l-Lawātīyu

           / min ʼahli Ṭanjata, yuknā ʼabā ʻAbdi-llāhi, wa-yaʻrifu bi-bni Baṭṭūṭatin


   ムハンマド、そはアブドゥッラーの息子にして、ムハンマドの孫にして、イブラーヒームの曾孫 (そうそん) にして、

     アブドゥッラフマーンの玄孫 (げんそん) にして、ユースフの来孫 (らいそん)、また、ラワート族の男にして、

       タンジールの住民にして、 アブー=アブドゥッラーのクンヤで呼ばれ、かつ、イブン=バットゥータの名で知られる」


   [ ム ' はンマドゥ ブヌ ァアブディッ ' らーヒ ブニ ム ' はンマディ ブニ イブラー ' ヒーマ ブニ ァアブディッラふ ' マーニ

      ブニ ' ユースフィ ッらワー ' ティーユ ミヌ ' アフり ' たンヂャタ ユク ' ナー ア ' バー ァアブディッ ' らーヒ

          ワ ' ヤァリフゥ ビブニ バッ ' とぅーたティヌ ]


〓どうですかあ? 最後のほうは 「寿限無寿限無」 ナミに、「前置詞句」 が1つに 「文章」 が2つですよ。いや、文章になっちゃってるから、『寿限無』 というより、『たらちね』 (大阪では 『延陽伯』 <えんようはく>) の


   「そも父は京都の産にして、姓は安藤、名はケイゾウ、アザナを五光と申せしが……」


に近いですね。


Wikipedia の英語版、日本語版には、名前の先頭、すなわち、個人名の 「ムハンマド」 の前に、「アブー・アブディッラー」 というのが付いています。これは、「子称」 というもので、「アブドゥッラーの父」 という尊称です。アラビア語では “クンヤ” (クニヤ) كنية kunya と言います。
〓上の “超長い名前” にも 「アブー=アブドゥッラーのクンヤで呼ばれ」 と出てきます。


   أبو عبد الله ʼabū ʻAbdi-llāh(i) [ アブー ぁアブディッ ' らーふ ]


〓アラビア語版 Wikipedia では、クンヤを添えていませんが、英語版・日本語版 Wikipedia のごとく、個人名の前に付けます。


〓どうすか? アラビア語の名前のことが、少しわかりましたか。




   げたにれの “日日是言語学”-イブン・バットゥータの着ぐるみ
    “イブン・バットゥータ・モール” には、イブン・バットゥータの着ぐるみもいるらしい にひひ