「一青窈」 の “ヒトト” とはナンだろう、について考える。 | げたにれの “日日是言語学”

げたにれの “日日是言語学”

やたらにコトバにコーデーする、げたのにれのや、ごまめのつぶやきです。


   hitoto_yo



〓ええ、このあいだ、「とんねるずのみなさんのおかげで した


   “食わず嫌い王決定戦”


を見てオロロキました。ゲストが、


   一青窈 さん


だってえんですね。ついぞ記憶にござんせん。バラエティ出演は。
〓バラエティって “人がら” がわかりますよね。それで楽しみなんですね。


〓でね、


   「新 堂本兄弟」


ですよ。みんなさん、見ましたかいな?


   “田中眞紀子のマネをする土井たか子”


〓ゼッピンでございましょう。そういうヒトだとは、ついぞ思わなかった。


      ブーケ1      ブーケ1      ブーケ1


〓彼女がデビューした当座は、“一青”  (ひとと) という奇妙な苗字についていろいろ検討したりしましたが、今一度、ここでか~るくまとめておきましょうか。


   「ひとと」 ってナンだろう?
   たぶん、“鳥の名前” じゃないか


と思うんですね。





  【 “一青窈” という人 】


〓もうね、プロフィールなんてのは Wikipedia でも見ればまとめてあるんですが、予備知識のないヒトのためにサラッとサラッておきましょう。


〓お父さんが台湾人、お母さんが日本人でした。1976年、東京生まれ。デビュー当時の台湾の記事では 「横浜生まれ」 となっているものがありました。日本に移住したあとの住所とゴッチャニなったのかな……

〓生後、まもなく、台湾にわたり、台北の “衞理幼稚園” Wèilĭ を卒園後、小学校就学を前にして、お母さん、お姉さんと3人で日本に移住しました。お父さんは、


   “台陽公司” Táiyáng Gōngsī [ たイヤン コンスー ]


という会社の、おそらくは、代表取締役であったようです。


〓“台陽公司” の代表取締役 ―― と言っても、そこらの町の中小企業の社長を思い浮かべてはいけません。お父さんは、


   顏惠民 Yán Huìmín [ イエヌ フイミヌ ] イェン・フイミン


という人物で、台湾五大著名家族の1つ “基隆 (キールン) の顏家 (イェンけ)” の跡取りでした。

〓一青窈さんが日本に渡ったとき、お父さんは、仕事で忙しく、台湾に残らざるをえなかったというのは、ちょうど、時を同じくして、“台陽公司” の代表取締役であった顏惠民氏のお父さん、つまり、一青さんのオジイサンが亡くなっているのです。お父さんは、顏一族の企業グループのとりまとめ役としても、台湾を留守にすることはできなかったのではないか、と考えられるんです。



   基隆  基隆_九?  

   基隆の位置                       基隆と九份の位置関係


   九?地図
   九份


“基隆の顏家” の祖先は、唐代 (八世紀) の有名な書家 “顔真卿” (がん・しんけい) であり、清朝 (しんちょう) の嘉慶 (かけい) 年間 (19世紀初頭) に先祖が台湾に渡ってきたと言います。
〓日本の植民地時代、台湾の鉱業は日本がすべて接収していましたが、1896年 (明治29年) から一般の台湾人に採掘権をあたえるという政策をとりました。1897年、基隆の顔家の “顔雲年” Yán Yúnnián (イェン・ユンニェン) ―― 一青窈さんの曾祖父にあたる ―― が瑞芳 (ずいほう) Ruìfāng [ じゅイファン ] 一帯の採掘権を獲得します。実は、この数年前に、この付近でが発見されていたのでした。


1918年 (大正7年)、日本の藤田組と合資で 「臺北炭株式會社」 を設立、1920年には藤田組の所有していた全ての株60%を譲り受けて、


   “台陽礦業株式會社”


を設立し、瑞芳一帯の炭鉱・金鉱を押さえた “台陽王国” を出現させます。1923年 (大正12年) 当時で、顔家が投資していた企業は、交通、木材、金融、水産、造船、穀物備蓄、化学工業、農地開発、食品、保険など多岐にわたりました。


      クローバー      クローバー      クローバー


侯孝賢 (ホウ・シャオシエン) の映画


   『悲情城市』 (ひじょうじょうし) (1989)


で有名になった町に、


   “九份” (きゅうふん) Jiŭfèn [ チウフェヌ ] チウフェン (北京音)
   “九份仔” kau1 hu7 na2 [ カオフナー ] カオフン、カオフナー (台湾語音)
        ※北京語にすると kāohunà に近い。台湾語には [ f ] がない。


があります。「份」 という字は日本では見かけませんが、「~人分」 という中国語の “量詞” (日本語でいう助数詞) です。


〓『台北縣誌』 (たいほくけんし) によれば、この土地には、もともと9戸しか人家がなく、市 (いち) が立つたびに、この土地の者が “九份”  「9軒分」 と言って買い物をして行くので、“九份” になったということです。



   jiufen


〓『悲情城市』 という映画じたいが、顏家と同じ基隆 (キールン) を舞台にしており、顏家ほどではないにしても、大きな屋台骨を背負った地元の廻船問屋、林家の人々を中心に話が描かれます。


〓この映画の中に、山の斜面にへばりつくように広がり、独特の階段状の構造をした町、


   “九份”


が登場し、1990年代初頭の 「侯孝賢ブーム+台湾ブーム」 に乗って、日本人の観光客が殺到したようです。


〓この “九份” こそが、顏家が採掘権を獲得していた金鉱でした。隣接する、台湾金属礦業局 (官営。戦後は、台湾金属礦業公司となる) の採掘する “金瓜石” Jīnguāshí (チンクヮーシー。“カボチャ山” の意) になぞらえて、


   “小金瓜” Xiăojīnguā [ シアオチンクヮー ] (小さいカボチャ)


と呼ばれます。


〓台湾が日本の植民地になる直前の1893年に金が発見され、先に書いたとおり、1897年に顏雲年が採掘権を獲得しました。もと、9戸だったという小村は、にわかに人口を増やし、現在の “九份” のような奇妙な階段状の町に発展しました。
1950年代後半には、金の産出量は細り、あとに書くように “九份” の鉱山は1971年に閉山になります。『悲情城市』 の公開以後は、金瓜石とともに観光で潤うようになり、また、『千と千尋の神隠し』 の町並みが “九份” をモデルにしているということが知れると、また、あらたに日本人観光客が増えているようです。


      あじさい      あじさい      あじさい


〓顏家のハナシに戻りましょう。


1923年、顏雲年が49歳で亡くなり、弟の “顏國年” Yán Guónián (イェン・クオニェン) が事業を引き継ぎます。1937年 (昭和12年)、顏國年が52歳で亡くなり、顏雲年の長男


   顏欽賢 Yán Qīnxián [ イエヌ チヌシエヌ ] イェン・チンシエン


が事業を継ぎます。このヒトが一青窈さんのオジイサンにあたります。


1945年 (昭和20年) に日本が敗戦すると、顏家がほぼ独占的に経営権を握り、


   “台陽礦業股份有限公司”
       Táiyáng Kuàngyè Gŭfen Yŏuxiàn Gōngsī


に会社を改組します。
1960年代には、顏家は経営を多角化し、顏家の一族の経営する企業は、


   三陽貿易株式会社 (日本)(1944)

   蘇澳造船 (1948)

   新美煤礦公司 (1955)

   三陽工業 (1959)

   台北客運・海山客運・三陽船務代理公司 (1965)

   三陽金属工業公司 (1965)

   台湾新東機械公司 (1968)

   台陽合金工業公司 (1969)

   瑞芳工業 (1970)

   台陽工業 (1975)

   盛弘化工 (1977)

   瑞芳砂礦公司 (1977)


など多岐にわたるようになります。

〓しかし、台陽公司の基幹産業であった鉱業では、しだいに資源が枯渇し、先に書いたとおり1971年、鉱業から撤退しました。それでも、1978年 (昭和53年) の 「台陽公司60周年」 の時点では、代表取締役が顏欽賢氏で、関連企業36社、資産総額10億元以上だったそうです。


〓台陽公司の代表取締役 “顏欽賢” 氏には、少なくとも男の子が2人いたようで、それが、


   顏惠民 Yán Huìmín  イェン・フイミン
   顏惠忠 Yán Huìzhōng イェン・フイチョン


の兄弟です。「惠民」 (フイミン) のほうが一青窈さんのお父さんです。


〓オジイサンで、台陽公司の代表取締役であった顏欽賢氏は、1983年 (昭和58年) の年末に亡くなりました。しかし、1985年 (昭和60年)、顏惠民氏も、父親のあとを追うように、一青窈さんが小学校2年生、9歳のときに亡くなっています。つまり、お父さんが代表取締役を務めていたとしても、その期間はあまり長くないのではないか、と思います。


〓日本のネットの情報をツラツラと見まするに、


   一青窈の父親は台湾の金鉱のオーナー


という、あまりにも 「短絡的」 な記述が氾濫していて、あまり感心しません。1960年代には、1971年の閉山にむかってひたすら産出量を減らしていただけなので、「金鉱のオーナー」 は事実に反すると言っていいでしょう。
〓一青窈さんによれば、お父さんは台湾と日本の貿易の仕事をしていたというので、関連企業の商談のために、日本と台湾を行き来していた、と考えたほうがよさそうです。そうした仕事のあいまに、よみうりランドの観覧車に娘といっしょに乗った、と、そういうことなんでしょう。



   yomiuriland


〓一青窈さんは、日本では“一青”  という苗字を名乗っています。石川県出身のお母さんの苗字です。よく、


   「母親の旧姓の “一青” を名乗る」


というような記述を見ますが、これは正しくありません。台湾は、中国や韓国と同じく、“夫婦異姓” です。なので、結婚しても女性の姓は変わりません。

〓一青窈さんの台湾での名前は、


   顏窈 Yán Yăo [ イエヌ ヤオ ] イェン・ヤオ


です。「顏」 が姓です。お父さんの姓ですね。台湾では 「正字」 を使うので、「彦」 の上の部分が 「文」 になります。台湾の情報をネットで検索するときには、日本の字体の漢字を入力してもヒットしません。字形を見比べて見てください。


    ―― 台湾、韓国
    ―― 日本、韓国
    ―― 中国


〓韓国も正字を使うので、本来は “顏” なんですが、韓国人じしんが漢字の知識に乏しくなってしまい、しばしば、日本の戦後の字体 “顔” が混じっています。


〓一青窈さんの 「窈」 という字は、本来、


   【 窈 】 yăo  「奥深い」


という意味です。だから、「穴カンムリ」 なんですね。“幼” yòu は意味を持たない音符です。声調まで一致する文字は、ほとんど、


   「咬」 yăo 咬む (かむ)


1文字だけといっていいですが、同音の文字には、


   「妖」 yāo あやしい、なまめかしい
   「姚」 yáo 美しい、遙かな


などがあります。あるいは、通用する文字として、


   「幽」 yōu かすかな、深遠な
   「杳」 miăo, yăo 深遠な、よく見えない・聞こえない


があります。

〓「杳 (よう) として行方が知れない」 などというときの “杳” ですね。こうした一群の語は、中国語でも、古く、ある種の語根が存在して、そこからいろいろな語が派生したことを思わせます。


〓ハナシをもとに戻しますと、【 窈 】 の本義 「奥深い」 から派生して、この字には、「深遠な」、「人里はなれて静かであること」、「静かで暗いこと」、「美しいこと」 などの意味があります。
〓現代に通用する熟語としては、


  【 窈窕 】 yăotiăo [ ヤオティアオ ] 「ヨウチョウ」
     (1) 女性がしとやかで、かつ、美しいこと。
     (2) 山谷が静かで奥深いこと。


  【 窈冥 】 yăomíng [ ヤオミン ] 「ヨウメイ」
     (1) 薄暗いこと。
     (2) 奥深いこと。


の2語くらいしかありません。
〓一青さんが、自分の名前の文字を説明するときに、“携帯・ワープロでは 「ようちょう」 と打つと出てきます” というのが、この 「窈窕」 という熟語です。


〓ところで、一青窈さんが高校2年生のときに亡くなったお母さんは、一青かづ枝  (ひとと かずえ) さんといって、


   石川県 鹿島郡 鳥屋町 一青 (かしまぐん とりやまち ひとと)


の出身だったそうです。
〓つまり、「一青」 という苗字は、この能登半島の付け根のあたりにある、(七尾と羽咋の中間あたり) 「字」 (あざ) の名前に由来しているのです。2005年3月、鳥屋町は周辺の2町と合併して 「中能登町」 になってしまいました。


   hitoto1  hitoto2
   一青の位置                        一青付近の地図





   【 「一青」 という地名 】


〓吉田茂樹著 『日本地名大事典』 によれば、「一青」 という地名が初めて文書に現れるのは、保元 (ほうげん) 2年 (1157年) のことで 「一青庄」 (ひととしょう) と見えるそうです。当事典では、地名の由来を 「しと (湿) と (処)」 であろう、としています。
〓このあたりは、古来、低湿地帯であったそうで、そのような場所で、「しと (湿) と (処)」 という地名が付いたのだと言います。
〓「瀬戸」 (せと)、「臥所」 (ふしど) など 「~と」、「~ど」 という日本語の造語法は、確かにあります。しかし、ひとつ困ったことがあって、


    湿った場所を指す “しと”、“しつ”、“しち” の使用例は、
    14世紀の 『徒然草』 が最初


なのです。つまり、12世紀の地名に使われるのは不自然なのです。しかも、これは、漢語「湿」 から派生したものであるらしい。


   「しっとり」 1477年~
   「しとしと」 14世紀なかば~


〓日本人は、「しっとり」、「しとしと」 が擬態語・擬音語である、と感じているようですが、どうも、「湿」 の漢字音がまずあって、それが 「湿り気」 を指すようになり、そこから、「しとしと」、「しっとり」 が派生したと考えるべきもののようです。

〓というのも、日本語の古語には、すでに、「しと」、「しとと」 の語があり、少々、困った意味合いの単語だったんですね。


   【 しと 】 10世紀末~。「小便」


〓この語は、江戸時代中期でも、まだ、使われていました。つまり、保元2年に、


   「しと+と」


という造語を行うなら、それは、「小便の場所」 というような意味になってしまうんですね。


      コスモス      コスモス      コスモス


〓別の観点から 「一青」 (ひとと) という地名を考えてみましょう。それには、


   「鳥屋町」 (とりやまち)


という名前が目を引きます。


   【 鳥屋 】 (とりや)
     (1) 鳥小屋。1278年ごろ~
     (2) 小鳥を育てて売り買いする店。1603年ごろ~

   【 鳥屋 】 (とや)
     (1) 鳥小屋。特に、鷹を飼育する小屋を意味する。8世紀前半~


〓「鳥屋町」 という名前は、どうやら、同町内に鎮座する


   鳥屋比古神社 (とりやひこ じんじゃ)


から取られたものであるようです。


〓「鳥屋比古神社」 は、『延喜式』 (えんぎしき) (927年完成) の巻十 (第10巻) “延喜式 神名帳・下” (えんぎしき じんみょうちょう げ) に記載があり、


   能登国 (のとのくに) 四十三座
     能登郡 (のとのこおり) 十七座


の中に、


   鳥屋比古神社


とあります。上で見るとおり、「鳥屋」 を “とりや” と読むようになったのは13世紀からであり、10世紀に記された 「鳥屋比古神社」 は、


   “とやひこ” じんじゃ


と読むべきものであることがわかります。つまり、この町の名前は、そもそも、「とりや」 ではなく、「とや」 なんです。
〓「~ひこ」 は男子の名前をつくる接尾辞であり、すると、「とやひこ」 の解釈は、


   「鷹を飼っている者」


という以外にありえません。『古事記』 が書かれた時代に、すでに忘れられていた 「とや」 という日本語があるならば、別のハナシですが。
〓つまり、きわめて古い時代、この地方に、鷹を飼っていることを誇る豪族がいたのかもしれません。
〓しかし、これでは 「一青」 (ひとと) のヒントは得られません。


      チューリップオレンジ      チューリップ紫      チューリップ赤


〓「日本国語大辞典」 にあたると、「ひとと」 というコトバがわずかに1語載っています。「しとど」 の方言語彙であるという。


  ――――――――――――――――――――――――――――――
  【 しとど 】 [ 鵐・巫鳥 ]

   (古くは 「しとと」)

   ホオジロ類の鳥、ホオアカ・アオジ・クロジなどの総称の古名。しととどり。


     「胡子鶺鴒 (あめつつ) 千鳥ま斯登登 (しとと) (な) ど開 (さ) ける利目 (とめ)
                                  ―― 『古事記』 712年
  ――――――――――――――――――――――――――――――


〓なんだか、漠然とした呼び名ですが、要は、


   スズメ目 ホオジロ科の鳥


を指していることがわかります。
〓しかし、


   「標準語形は “しとど” である」


という選択はどうでしょう。だいたい、都会に住んでいる人間は目にすることのない鳥の名前に 「しとど」 という “標準語形” を設定するのはおかしいと思いませんか。地方でしか見られない鳥であれば、ただ、方言形が並立するのみ、ではないでしょうか。
〓ちょいと、「アオジ」、「ホオジロ」、「クロジ」 の方言形を並べてみましょうか。



  【 “アオジ” の方言形 】

   あおすずめ ── 岩手県九戸郡、鳥取県西伯郡
   あおすとと ── 岩手県
   あおひとと ── 福岡県
   あおじろ ── 群馬県
   あおじろ、あおひばり、あおんちょ ── 香川県
   あおっちょ、あおちょ、あおんじょ ── 奈良県
   あおじこ ── 宮城県
   あお、あおかしら ── 石川県
   あおしとと ―― 周防 (1737年の記録)、岩手県西磐井郡、山形県西置賜郡
   あおしと ── 神奈川県、群馬県
   あおしとど ── 秋田県、宮城県、富山県、鹿児島県
   ほおぐろ ── 岐阜県
   あおしょうと ── 岡山県、広島県
   あおどり ── 福島県
   あおのじ ── 鳥取県
   あおひばり ── 香川県西部
   あおんぢょー ── 広島県
   あおもんちんち、あおんじ ── 千葉県
   かわらひわ ── 宮城県仙台市
   しい ── 薩摩 (1847年の記録)
   しとと ── 富山県西礪波郡 <となみ>、鹿児島県
   しとど ── 青森県
   しとと ── 鹿児島




  【 “ホオジロ” の方言形 】

   あかじ ―― 福島県相馬郡、茨城県新治郡
   あかっちょ ―― 三重県、奈良県
   しとど ―― 青森県津軽、岩手県、山形県中部、福島県南会津郡、島根県能義郡
   しとと ―― 栃木県安蘇郡、群馬県、神奈川県、長野県、岐阜県・郡上郡、
      愛知県東加茂郡、鳥取県八頭郡、島根県、熊本県、大分県・北海部郡
   ひとと ―― 栃木県、群馬県利根郡・勢多郡、埼玉県秩父郡・北埼玉郡、
      静岡県磐田郡、鳥取県気高郡・八頭郡、福岡県田川郡・三井郡
   ふとと ―― 群馬県利根郡
   しととん ―― 島根県八束郡
   しっとと ―― 栃木県那須郡、熊本県芦北郡・八代郡
   しいと ―― 島根県大原郡・仁多郡
   しゅうと ―― 島根県飯石郡
   しょおと ―― 兵庫県淡路島、鳥取県日野郡、島根県石見、岡山県、広島県、
      山口県玖珂郡、徳島県、愛媛県、高知県高岡郡
   ひょおと ―― 岡山県邑久郡、愛媛県
   しょおとお ―― 岡山県、広島県、山口県玖珂郡
   しょとお ―― 島根県石見、山口県玖珂郡
   ひょっとお ―― 神奈川県津久井郡
   のしとと ── 宮崎県児湯郡・東諸県郡
   のしっちょ ── 長崎県南高来郡
   のひっちょ ── 三重県飯南郡、長崎県南高来郡
   のすっちょ ── 長崎市
   のっちょ ── 奈良県宇陀郡




  【 “クロジ” の方言形 】


   しとと ―― 石川県、鹿児島県




〓大混乱ですね。石川県の方言形だけについて言えば、


   あお、あおかしら ── アオジ
   しとと  ── クロジ


があがっています。

〓方言形に、しばしば、「アオシトト」 のような語形が見えるように、「アオジ」、「アカジ」、「クロジ」といった鳥名が、実は、「アオシトト」、「アカシトト」、「クロシトト」 の略形であることがわかります。
〓このうち、もっとも人の目を引いたのは 「青しとと」 だったようです。もちろん、日本の古語では 「青」 は、現代の 「緑」 のことです。「アオジ」 の羽根の色は、鳥類図鑑などでは 「灰緑色」 としていますが、ひらたく言えば 「黄緑色」 なんです。目立つ胸の黄緑色が、見る者に強い印象を与えるのでしょう。



   アオジ


〓「シトト」 は漢字で 「巫鳥」、「鵐」 と書きますが、どちらも、中国語で 「ホオジロ科」 の鳥を指すコトバです。
〓日本では、「アオジ」 は漢字で 「青鵐」 と書きますが、このことも 「アオジ」 のもとの語形が 「アオジトト」 であったことを物語ります。


〓『和漢三才図会』 (わかんさんさいずえ) という18世紀初頭 (江戸時代) に編まれた 「絵入り百科事典」 では、「しとと」 の項に、


   「今ではシトトをアオジの意味に使うが、これは誤りである」


ということが書かれています。
〓逆に言うと、18世紀初頭には、「しとと」 は、もっぱら 「アオジ」 を意味していたことがわかります。



〓柏書房 『図説 鳥名の由来辞典』 菅原浩 (すがわら ひろし)、柿澤亮三 (かきざわ りょうぞう) 編著 ── という書物があります。類書の中では、群を抜いて面白い辞典です。その中に、



  ──────────――――――――――――――――――――
   しとと、しとど 【ホオジロ、アオジ類】


   ホオジロ、アオジ、クロジ類の古名。昔はホオジロを主にさしたようであるが、
   後には主にアオジを呼んでいる。いずれもホオジロ科の小鳥で、ホオジロは羽色が
   主に褐色で、顔が黒く、眉と眼の下部に白い線があり、アオジは羽色が黄緑色、
   クロジは雄の羽色が灰黒色である。いずれも藪に住み、灌木の枝に止まって
   美しい囀り (さえずり) をする。


   …………


   室町時代になると、“しとと” 類の中で “あをじとと” (アオジ)
   “ほほじろ” (ホオジロ) が区別して呼ばれるようになり、“しとと” は
   主にアオジをさすようになってくる。……
   安土桃山時代の日葡辞書 (にっぽじしょ) には、“しとと” が xitoto と記され、
   この時代まで濁音の “しとど” ではなく、清音の “しとと” と発音されて
   いたことが分かる。

   また “あをしとと” が auojitoto と記され、“あをしとど” ではなく
   “あをじとと” であることが分かる。


   江戸時代になると、“あをじとと” が “あをじ” になり、また、“くろじとと”
   “くろじ” (クロジ) が区別されるようになった。江戸時代前期の 「本朝食鑑」 には、


         之止止 (しとと) と訓む (よむ)、あるいは今、
           阿於之 (あおじ) と訓む


   とし、“しとど” は完全にアオジをさしている。また江戸時代後期の
   「堀田禽譜」 (ほった きんぷ) の “しとど” の図もアオジである。
  ──────────――――――――――――――――――――



〓つまり、「しとと」 というコトバの変化をまとめてみると、



   (1) 『古事記』 にすでに 「鵐」 (しとと) の名が出ている。
      奈良時代、平安時代を通じて使われる。
          ↓
   (2) 1157年 (保元2年) 平安時代末期。
      「一青庄」 (ひととしょう) という地名の初出。
          ↓
   (3) 室町時代 (1336~1573) 「しとと」 が主に 「アオジ」 (青鵐)
      指すようになる。
          ↓
   (4) 1603年 (江戸時代の最初) の 『日葡辞書』 に 「しとと」 の発音が
     “シトト” であり、「あをしとと」 の発音が “アウォジトト” である旨が
     明記されている。
          ↓
   (5) 1697年 (江戸時代) の 『本朝食鑑』 に 「鵐」 を 「しとと」
     もしくは今では 「あおじ」 と読むと記述されている。
          ↓
   (6) 現代の石川県の方言では、「あお、あおかしら」 で “アオジ” を指し、
     「しとと」 で “クロジ” を指す。



〓「しとと」 が 「アオジ」 を指すようになるのは、室町年間とされています。「一青庄」 の名が現れる、少なくとも、200年後です。
〓なので、「一青」 (ひとと) の 「青」 の文字が 「アオジ」 に由来する、というのは難しいかもしれない。しかし、「しとと」 で “クロジ” を指す、というのは、あきらかに、石川県のコトバの変化が、中央の変化とは異なった道のりをたどったことを示しています。


〓仮に、「一青庄」 (ひととしょう) の “ひとと” という地名が、鳥の名に由来するとしたら、


   “ひとと” ── ホオジロ科の鳥 ── の中で、

   特に、胸が青い (黄緑色) “ひとと” を指す、という意味で、


      「青い」 “一と”
        
      “一青”


という奇妙な宛て字が行われたかもしれません。

〓ひじょうにフシギな偶然なのでしょうか。鳥屋町 (字) 一青のとなりの地名を


   黒氏  (くろじ)


と言います。日本語で、“くろじ” というコトバは、「黒字」、「黒地」、「クロジ」 (鳥) の3語しかありません。


〓ところで、土地の方言では、鳥の名前は 「しとと」 であり、地名は 「ひとと」 ではないか、という指摘もあるかもしれません。
〓「一青」 という苗字は、ひじょうに珍しく、インターネットで確認できるかぎりでは、「一青窈、一青妙」 の姉妹の他は、


   順天堂大学 医学部附属 順天堂浦安病院 整形外科 科長
     一青 勝雄 しとと かつお)


というお医者さんが見つかるのみです。この “読み” が重要です。つまり、この先生の名前の読みが意味するところは、


   「一青」 という苗字・地名の本来の発音が 「しとと」 であった


ということです。こういうことは、しばしばあって、早くに土地を離れた人たちが、苗字に 「もとの発音」 を保存していることがあります。もとの土地では、


   「地名の読み」 が “標準語化” されて、それにならって、苗字も “標準音” になってしまう


という現象です。つまり、少なくとも明治以前までは、「一青」 という地名は、現地では “しとと” と読まれていた可能性が大きいのです。明治以降の標準語化の波の中で、「一」 は 「ひと」 と読むべきだ、という圧力により、音が変わってしまったのです。
〓いっぽうで、「しとと」 という鳥名は、「一」 という漢字に関係がないので、そのまま残った。


〓さあて、新しい資料でも出ないかぎり、「一青」 の語源がどのようなものであるかを断定することは、誰にもできないでしょう。しかし、それぞれの個人が想像をめぐらすのは自由です。


      お月様      お月様      お月様


〓「一青」 という苗字・地名について言えることは、以上で終わりです。