「グラースノスチ」 は 「ガラス」 と関係があるか? | げたにれの “日日是言語学”

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やたらにコトバにコーデーする、げたのにれのや、ごまめのつぶやきです。

〓先だってですね、ソクーロフの映画のタイトル、

   «Одинокий голос человека»
     Odinokij golos chelovjeka
     [ アヂ ' ノーキイ ' ゴーらス チェら ' ヴィェーカ ]
                  『孤独の声』

を打ち込んでいてですね、「オッ!」 っと思ったんですね。あのね、知ってる単語でも、スルーしていて、あとから突然、その語源関係に気がつくということがありまさあね。


   голос golos [ ' ゴーらス ] 「声」。ロシア語
   гласность glasnost' [ グ ' らースナシチ ] 「グラースノスチ、公表、公開」。ロシア語


〓まあ、「グラースノスチ」 なんてコトバが登場したのは、もう、1980年代の中ごろなんですね。「ペレストロイカ」 とペアでね。「情報公開」 なんというふうに訳されていました。
〓この 「グラースノスチ」 という単語は、「公開の、ガラス張りの」 という形容詞からつくられた抽象名詞でした。 -ость -ost' というのは、形容詞から抽象名詞をつくる接尾辞なんですね。


   гласный glasnyj [ グ ' らースヌイ ] 「公開の、ガラス張りの、母音の」
    
   -ость -ost' [ -アシチ ]
    
   гласность glasnost' [ グ ' らースナシチ ] 「公開、公表」



〓これと голос golos [ ' ゴーらス ] 「声」 とどういう関係があるのか。


〓ロシア語で、「街、都市」 のことを、

   город gorod [ ' ゴーラット ] 「都市」。ロシア語

と言います。しかし、都市の名前の語尾には2種類があります。


   Новгород Novgorod [ ' ノーヴガラット ] 「ノヴゴロド」
   Ленинград Ljeningrad [ りニング ' ラート ] 「レニングラード」


〓どうしてこういうことになるのか、というと、これは、

   「純ロシア語彙」 「教会スラヴ語彙」

が錯綜 (さくそう) しているからなのですね。「教会スラヴ語」 については、このあいだの “ハムスター” のときに説明したので繰り返しません。
   http://ameblo.jp/nirenoya/entry-10065000765.html

〓すなわち、ロシア語の語彙の中には、ロシア語本来の単語と、それにきわめてよく似た 「古ブルガリア語」 の単語が同居していることがあるのです。


   город gorod [ ' ゴーラット ] 純ロシア語
   град grad [ グ ' ラート ] 教会スラヴ語系のロシア語


〓一般に、教会スラヴ語に由来する単語のほうが、抽象的で威厳があります。現代ロシア語では、град 「グラート」 という単語は単独で使用しませんが、都市を命名するようなときには、ついつい、「威厳のある」 -град を造語要素として選んでしまうんですね。「ノヴゴロド」 は、ロシアがギリシャ正教を受け入れる以前に成立した都市なので、純ロシア語の名前がついているわけです。
〓スラヴ祖語では、

   *gordъ [ ゴルドゥ ]

という語形だったと考えられています。ポーランド語・チェコ語などの西スラヴ語では、おおかた、 “grod” というように o r が入れ替わり、ブルガリア語・セルビア=クロアチア語などの南スラヴ語では、 “grad” のように母音が a に変わりました。
ロシア語・ウクライナ語・ベラルーシ語の東スラヴ語では、o r を入れ換えずに、r d のあいだに、o を反復して挿入しました。

〓同じことが、

   голос golos [ ' ゴーらス ] 「声」
   гласный glasnyj [ グ ' らースヌイ ] 「公開の、母音の」



についても言えます。あいだに、今では廃れてしまった



   глас glas [ グ ' らース ] 「声」。教会スラヴ語系のロシア語


があるわけです。これも、город――град とまったく同じ対応ですね。スラヴ祖語形は *golsъ [ ゴるスゥ ] です。要するに、гласный 「グラースヌイ」 という形容詞は、「声の」 という意味であるわけです。だから、

   「声の」 → 「公開の」
    
   「母音の」

という、一見、関係のなさそうな意味を生じるわけです。


〓これで、ソクーロフの映画のタイトルを打ち込んでいて、「グラースノスチ」 を突然思い出した理由がわけっていただけましたね。




  【 「コール」 と 「グロリア」 】

〓英語で、「声」 は voice ですね。残念ながら、これはゲルマン語起源ではありません。例によって、ノルマン・コンクエスト後にフランス語から入った、ラテン語系の語彙です。

   vōx [ ' ウォークス ] 「声」。ラテン語

〓「天声人語」、


   vox populi, vox Dei [ ' ウォークス ' ポプゥりー ' ウォークス ' デイー ]


というのは、西欧の古いコトワザで、 「民の声は、神の声」 という意味ですね。この vox です。対格は vōcem [ ' ウォーケ(ム) ] なので、ロマンス諸語には voce で伝わっています。イタリア語が、まさに、voce 「ヴォーチェ」 ですね。
〓古フランス語で、長母音 ō oi という二重母音になって、

   voiz, vois [ ' ヴォイツ、' ヴォイス ] 古フランス語

となりました。
〓英語の voice は、ノルマン人のフランス語 voice [ ' ヴォイツェ ] から。まだ、語末の曖昧母音 -e が落ちておらず、パリのフランス語より1段階古い語形をとどめています。

〓現代フランス語は、語末の [ s ] が落ちて [ v w a ] [ ヴ ' ワ ] という発音になるも、学者によって、語末にラテン語の -x が付けられました。なので、

   voix [ ヴ ' ワ ] 現代フランス語

〓フランス語で、語末の -x が発音されたことはありません。

〓ところで、このラテン語・英語・フランス語の系統の 「声」 はロシア語の 「声」 と語源が違います。vox の系統は、

    *wekʷ- [ ウェクゥ ] 「言う」。印欧祖語

にさかのぼります。一方で、ロシア語の голос の系統は、

   *gal(os)- [ ガる ] 「声、呼ぶ、名前」。印欧祖語

にさかのぼります。この *gal- に由来する単語は、けっこう身近にあるんですよ。

   call 「呼ぶ」。英語

〓ドイツ語では消滅してしまった動詞ですが、

   kallen オランダ語
   kalla スウェーデン語、ノルウェー語
   kalde デンマーク語

が残っています。
〓ラテン語では、

   glōria [ グ ' ろーリア ] 「名声、栄誉」。ラテン語

〓おそらく、母音に挟まれた -s- が、 [ z ] に有声化したのち、ロータシズムで -r- になったものでしょう。もちろん、これは英語に入って、

   glory 「栄光、名誉」。現代英語
   Gloria [ グ ' ろリア、グ ' ろウリア ] 「グロリア」。女子名

となります。
〓そして、ギリシャ語では、

   γλῶσσα glōssa [ グ ' ろーッサ ] 「舌」。古典ギリシャ語
   γλώσσα glossa [ グ ' ろーサ ] 「舌」。現代ギリシャ語

になります。まったく、コトバの派生のしかたというのは面白いもので。
〓このギリシャ語彙は、中世・近代ラテン語を通して、現代西欧諸語に語彙を提供しています。

   glossary [ グ ' ろサリー ] 「用語集、用語解説、グロッサリー」。英語

〓また、γλῶσσα 「グローッサ」 のアッティカ方言形 γλῶττα glōtta [ グ ' ろーッタ ] からは、近代ラテン語 glottis [ グ ' ろッティス ] 「声門」 がつくられています。
〓多少とも言語に感心のあるヒト、あるいは、アラビア語とか、ヘブライ語とか、デンマーク語とか、あるいは、タイ語、ハワイ語などを勉強しているヒトは、

   「声門閉鎖音」 [ ʔ ]

というのを聞いたことがあると思います。これを英語で、

   glottal stop [ グ ' ろトる ス , トップ ]

と言います。


〓「グラースノスチ」 とは、「情報をガラス張りにすること」 なんという説明を聞いて、そうか glass 「ガラス」 と関係あるんだな、と思ったヒトも多いと思います。しかし、残念ながら、こちらのもとになった語基は、

   *ghel- [ げる ] 「輝く」。印欧祖語

で、「声」 とは、まるで関係がないんです。yellow, gold, gleam, glow などのもとになった語基ですね。