『俊寛』 ── 単なる一場面が、なぜ、かくも好まれるのか。 | げたにれの “日日是言語学”

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やたらにコトバにコーデーする、げたのにれのや、ごまめのつぶやきです。

〓えゝ、先日、申し上げましたとおり、日曜日に 「国立劇場 大劇場」 にて、



   『平家女護島』 (へいけ にょごのしま) より

     一段目からは、後半の
       「六波羅清盛館の場」 (ろくはら きよもりやかたの ば)
     二段目からは、後半の
       「鬼界ヶ島の場」 (きかいがしまの ば)
        ※これが、いわゆる 『俊寛』 (しゅんかん)

を見てまいりました。本来は、

   “五段 十一場” の作品

です。つまり、大きなエピソードのカタマリが5つあり、そのそれぞれが1~3つのシーンに分かれているのです。歌舞伎の普通の上演形態です。

〓「平家にあらずんば人にあらず」 と言われた時代、これに抗 (あらが) ったがために、苦難・不幸・悶死におちいる人々を、まずは描きます。そして、最終的には、平清盛が、それらの人々の怨念に取り憑かれ、熱病の中で悶え苦しみ死んでゆく姿を描く、というのが、この狂言の本来の趣向です。
〓『平家女護島』 (へいけ にょごのしま) という外題 (げだい) は、三段目に出てくる、

   「朱雀の御所は女護島」
    (しゅしゃかの ごしょは にょごのしま)

から取られていると言いますが、これは、本筋に関係のない瑣末な部分であるため、いいや、この演目では、各段で女性たちが活躍するので、「女護島」 (にょごのしま、にょごがしま) と言ったのだ、という主張もあります。「女護島」 というのは、女ばかりが住むという、伝承上の島です。

〓いずれにしても、この 『平家女護島』 は、そのうちの “二段目 鬼界ヶ島の場” だけが繰り返し繰り返し上演されてきており、そのため、

   『俊寛』 (しゅんかん)
     =『平家女護島』 二段目 鬼界ヶ島の場

という通称が生まれました。

〓逆に言うなら、この近松門左衛門の筆になる、本来は人形浄瑠璃のための台本の中で、

   「鬼界ヶ島における “俊寛”」

を描いた場面が秀逸だった、ということでしょう。

〓近松門左衛門は、本来、人形浄瑠璃の台本作者でした。生涯に 100曲を超える浄瑠璃を書きました。そのいっぽうで、歌舞伎は、推定で 35編だそうです。というのも、近松門左衛門の歌舞伎は、今日では、資料が散逸しているからです。
〓歌舞伎で、しばしば、近松門左衛門作と謳われているものは、

   人形浄瑠璃からの翻案

です。『平家女護島』 もそうした1本でした。
〓享保4年 (1719年)、大坂竹本座にて初演。近松門左衛門、当時、67歳。翌、享保5年 (1720年) に、大坂の竹嶋幸左衛門座で歌舞伎として上演。大当たり。

〓ほどなくして、文楽でも歌舞伎でも、俊寛』 だけが繰り返し上演されるようになります。アタシは、古い型は知らないんですが、現在の型にしたのは、明治末から昭和にかけて活躍した、

   初代 中村吉右衛門 (なかむら きちえもん)

です。初代吉右衛門が、現在の型の 「俊寛」 を見出したのは、大正年間のことと言います。

〓今、孫の松本幸四郎 (まつもと こうしろう) が

   8回目の “俊寛” を国立劇場にかけている

のです。もちろん、初代 中村吉右衛門の型を継承したもので、

   松本幸四郎でなければ、
          見られない “俊寛”


です。


〓なぜ、これほどまでに 『俊寛』 が好まれてきたか、と言いますと、おそらく、そのリアリティゆえではないか、と思うのです。ハナシの底が割れないように説明するのはむずかしいんですが……
〓「俊寛」 というのは、もちろん実在の人物で、

   平安時代後期の真言宗の

でありました。平家打倒を画策した密議が露見し、

   俊寛
   丹波少将成経 (たんばのしょうしょうなりつね)
   平判官康頼 (へいはんがん やすより)

の3人は、薩摩国 (さつまのくに) の絶海の孤島 「鬼界ヶ島」 (きかいがしま) に流罪になります。この島が、現在のどこにあたるのか、それはハッキリしていないようです。
〓平清盛は、娘の安産を祈願して、罪人の赦免をおこないます。清盛は、成経、康頼のふたりのみ赦免をおこない、俊寛は何があっても島に残すという所存でしたが、能登守教経 (のとのかみ のりつね) が、清盛に内緒で、「俊寛も赦免をする」 という赦免状を一存で発行していました。つまり、

   三人とも流罪を解かれる

ことになったのです。

   ※平教経 (たいらののりつね) は、清盛の弟 教盛 (のりもり) の
    次男であり、つまりは、清盛の甥にあたります。血を分けた甥でさえ、
    清盛のやり方には平伏しかねる、というようすが描かれています。

   ※これは、筋書を面白くするためのフィクションであり、実際には、
    赦免が行われたのは、成経、康頼のふたりだけであり、俊寛は
    首謀者であるとして、赦免されずに、島に残されました。

〓しかし、ここで、3人分の通行手形で4人を帰国させねばならない事態が起こります。委細は内緒ということで。
〓どうしても4人目を帰したい俊寛は、

   自己犠牲

を払って、自分のかわりに4人目の人物を船に乗せます。もちろん、感動の物語ですよ。よくわからない人に説明するなら、

   “アルマゲドン”

ですよ。みんな泣いたんでしょ。そういうことですよ。

   美しい犠牲の物語

〓それだけだったら、従来の歌舞伎と何ら変わらないし、おそらく、『俊寛』 だけが好まれて繰り返し上演されることもなかったでしょう。

〓演芸台本にて、“俊寛” の最後のくだりを読んでみますと、そこに、従来の歌舞伎には、あってはならない

   へたこいた~

が見えるのです。つまり、「いいんだよ、みんな」 でひとりあの世に行けば美しい物語ですが、

  「うわ~、失敗した、
  うそだうそだうそだうそだ、
  オレだって助かりたい」


〓これをブッチャケたのが 「俊寛」 なのです。おそらく、この場面が好まれるのは、そうした、ニンゲンの弱さの肯定ゆえなのではないか、と思います。

〓もとが、人形浄瑠璃ですので、役者の演技の BGM に義太夫 (浄瑠璃) が入っているんですが、最後のくだりは、このようになっています。

  思い切っても凡夫心

  岸の高見に駆け上がり、
  爪立てて打ち招き、
  浜の真砂 (まさご) に伏しまろび

  あせれども叫びても、
  哀れとむろう人とても、
  啼く音はかもめ天津雁、
  誘うはおのが友千鳥

  一人を捨てて沖津波

  幾重の袖や


〓この義太夫のあいだに入っている俊寛のセリフといえば、ただ、ひたすら、

   オーイ

という船を呼ぶ声だけです。俊寛を取り残して、沖に去ってゆく船へと俊寛が呼びかける

   オーイ

というセリフが4回きり。ト書きには、

   トド、枝を折って岩の先端に出て、手を挙げ向うを見やり、思い入れ。

としか書かれていない。

   「何を思い入れるのか」

書いていない。つまり、ここにこそ

   大正時代に生まれた初代中村吉右衛門の俊寛の型

の工夫があります。台本にして、わずか23行。セリフは 「オーイ」 が4回。義太夫が7行。

〓たった、これだけの部分が、この 『俊寛』 の見どころです。俊寛は、浜辺をこけつまろびつ、果ては

   船まで走っていこうとせんがばかり

〓舞台は回り、有名な “岩” が舞台中央へと移動してきます。黒衣 (くろこ) たちが舞台を覆っていた布を次々に引き剥がしてゆくと、舞台が一面の海と化すのです。

   まるで島が沈没するのではないか

という印象を与えます。
〓足腰の弱った俊寛が ── 実際には、俊寛、35歳くらいでした ── まるで、船まで飛んで行かんとするように、海に突出したイワオによじ登ります。

   そのミットモナさ!
   未練たらたらなようす!


〓それこそが、この 「近松門左衛門の台本に隠れていたもの」、そして 「大正時代に、初代吉右衛門が掘り出したもの」 なのです。

〓わずか 23行の台本に対して、舞台上での演技は、おそらく 10分あまりも続くのです。そして、台本にほとんど何も書かれていない、この部分こそが、『俊寛』 の核心です。

   思い切っても凡夫心

〓「凡夫心」 (ぼんぷしん) とは、

   凡夫の心。凡人のつまらない心持。悟りきれない凡人の煩悩心。

のことです。「思い切っても凡夫心」。これこそが、『俊寛』 核心の一句です。

   誰だって、絶海の孤島でひとり死んでゆくのはイヤなんだ

〓それが、たとえ、真言宗の僧侶であっても。だから、見ている者も救われるんですね。美しい自己犠牲の物語。で、終わっていたなら、一本の狂言の単なる一場に、カクも世の人々の心が惹きつけられることもなかったでしょう。

〓実際の俊寛は、赦免のあった 1178年の翌 1179年 (治承三年)、みずから食を断ち、絶命したと言われています……