暴力はなぜ、許されないのか。

ときどき、「殴るのには理由がある」「殴られる側にも原因がある」という人がいる。もちろん、理由のない暴力は論外だが、理由があっても、暴力は許されない。実際、刑事裁判では被害者に落ち度がある場合には、量刑において考慮されることはあるのだろうが、(それが正当防衛や緊急避難にあたらない限り)違法性阻却事由にはならない。

 なぜなのか。以下は、自分なりに考えてみた。

 

 「話し合い」「対話」によって社会のルールを決めていこうというのが、この社会の、民主主義の本質である。にもかかわらず、暴力には、「対話終了効」があるからだ。

 たとえば、後輩が生意気な態度をとった、タスクをさぼった、従業員が言うことをきかない、配偶者がすべきことをしない、などが暴力の主な「理由」たりえよう。

 しかし、この「理由」が正しいとは限らない。後輩の態度が本当に生意気だったのか、さぼったというタスク、聞かなきゃいけない上司の言葉、「すべき」とされている配偶者の仕事は、そもそも本当にやらなきゃいけないものなのか。行為者の思い込みなのか、それとも、その社会では当然なのか、等々。これらは、本来ならば、対話を試み、相手を説得し、よりよいお互いが住みやすい部活、会社、家庭を作り上げるべきことなのだ。しかし、暴力は、それらの過程をすっとばして、一気に暴力を振るう者の思い通りの状態を実現しようとするものである。そうすると、社会秩序は乱れる。こんな物騒な社会に住みたい者は誰もいないだろう。

 

 こんなことを言うと、現代社会には、暴力以外にも「対話終了効」はあるが、どうして暴力だけが違法なのか、などという反論もあるかもしれない。たとえば、元請・下請けの関係のように、経済力のあるものが「取引打ち切り」のカードをきることによって、対話終了を宣言することがある。

 たしかに、このような状態が望ましいとはいえない。ただ、経済活動においては、自由競争により力をつけた者がその力を利用することは、ある程度は許されても仕方ない。もっとも、あまりにもひどい場合には、個別法(独占禁止法、下請法、労働法など)で対話終了効を制限している。

 

 結論、暴力は、対話終了効があるゆえに、いかなる場合も許されないものである