心境の変化

 

まず、ここに書く内容が、他人にどう思われ、それがどう他人の中の自分に形作られていくのか。ということを考える。

主にこのブログを書いていた中学生の頃は絶対にしなかった。

それでも認められていた(?)と言うのはすごいが。

だんだん受験が近づくにつれ人間性が崩壊して行ったのが見て取れる。

これで去って行った人もいるだろう笑

 

人と話すことの重要性を感じている。厳密には、話すことというよりは、関わっていくということだが。

あんまり割り切れない部分がある。

あれがいいこれがいい、自分の気持ちに素直になるとこれは納得できない、 など、自分本位で考えていると否定から入りがちだ。

だけど価値観は多様で、そっちに目を向ける方が面白いし自分を拡張できるので、「自分を伝え他人を知り自分を知る」に転換した。

人との交流は楽しい。いろんな人がいて、いろんな考え方があって、いろんな人生がある。

喧嘩をしなければ人の本心がわからないこともあるし、自分の偏狭さに気づくことも難しい。

自分がわかっていないことって、わかっていないこともわかっていない場合がほとんどなので、外側の世界に答えまたはヒントを求めていくしかない。

人生は思ったよりも多義的であり、常に拡張を求めなければたちまち選択肢が限られてしまう。

人生のルートが絞られるわけだ。

それを、「明確な芯を持っている」という人もいれば、僕みたいに「成長が止まった」という人もいる。

そこにまず多義性があるのだが。

そもそも成長が必要なのか?という問いも、難しい問題である。

「かわいそうに、いつもこの人忙しそうだよ。僕は毎日が楽しいのに。」

「かわいそうに、この人たちは明日のことなんか考えずに、毎日を放埓的に過ごしているんだ。」

こういった言葉の投げ合いが、どこかの島のアフリカ系、インド系住民の間で交わされているらしい。

成長が楽しいと思うかどうかなのだが、成長するのが目的ではなくて、楽しんでいるうちに成長する。みたいなところがある。

一緒に悩み考え楽しみ勇気を振り絞り、、

そう行った人生のドラマって、楽しいものだ。

べつに辛さはそこにない。

成長しないを選んだ場合、成長する楽しさもしれない。

それは成長するためではないけれど。

楽しいって。

まあ、どこだかの島の議論が、どっちが正しいとかもない。それも多義性だし、みんながみんな自分の人生を選んでけばいいと思うし成長は結果論でしかないからね。

あれ、これって堂々巡りなんじゃ。。 ムズカスィ

(もう眠いので寝る。文章で矛盾してるけどもういいや。思考停止睡眠w)

 

まあ、こうやってね

僕はあの頃と大きく視野も考え方も変わっている。

仲間に囲まれ今とても楽しい。

ということを言いたかっただけです。

 

おやすみなさい