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台北大空襲

台湾には日本と比較して戦前の建物がかなり残っている。理由はいろいろあるのだが そこで思いつくのは日本は空襲で主要都市は徹底的にやられたからではあるが 台湾には空襲がなかったかといえばそうではなく 現在の総統府、日本時代の総督府も空襲にあって三日三晩焼けたとの話は台湾で耳にするし、観光地として有名な龍山寺も空襲にあったというし、台湾には軍事拠点もあり、特攻隊の基地もあったし 軍人も数十万単位で存在したので 台湾の主要都市にはやはり空襲があった。その中で一番被害の大きかった台北大空襲だった。
Wikipedia台北大空
台北大空襲(たいほくだいくうしゅう)は第二次世界大戦中の1945年(昭和20年)5月31日、連合国軍の爆撃機により日本統治時代の台湾台北州台北市に対して行われた無差別爆撃である。この空襲で市民約3000人が死亡、重軽傷者並びに家屋を失った者は数万人以上に上った。
アメリカ軍による台北空襲で最も被害が大きかったのが1945年5月31日の空襲である。フィリピンスービック湾に駐留するアメリカ第5航空隊は、四航空大隊の合計117機のB-24を派遣しこの任務に当たらせた。駐菲アメリカ空軍は3機のB-24を一編隊とし、5月31日の午前10時より午後1時まで台北を目標とした空襲を加えた。
1944年10月10日より始まった台湾沖航空戦の結果、当初台湾に230機あった戦闘機はほぼ壊滅状態であり、地上に残された対空砲火施設のあった台北城内(現在の台北市忠孝西路、中華路、愛国西路、中山南路に囲繞された地域)、城外の台湾歩兵第一連隊、野砲兵第48連隊(現在の中正紀念堂)などの軍事施設を初め、台湾総督府を含む、栄町、京町、文武町、書院町、明石町、旭町などの主要官庁などが3,800発の強力な爆弾の被害を受けた。
この空襲において最も大きな物的被害を受けたのは台湾総督府である。総督府は空襲を避けるために偽装が施されていたが、正面に命中弾を受け建造物は傾斜、及び火災に見舞われ使用不可能となった。このほか総務長官官邸、鉄道ホテル、総督府図書館、台湾電力株式会社、台湾軍司令部、台北帝国大学付属病院、台北駅、高等法院、度量衡所などの官庁が程度の差こそあれ被害を受けている。
台北大空襲市内着弾略図
中国語版より
台北大空襲はアメリカ軍は台北城内の軍事・経済活動の拠点を主要目標としたとしているが、少なからずの一般市民の住宅への被害も認められる。当時市民の防空施設であった台北市双連地区の静修女学校(現在の私立天主教静修女子中学校)に付属するキリスト教教会のほか、龍山寺の正殿及び左廊も爆撃され、塑像の「釋迦出山」も戦災に巻き込まれている。
台北大空襲での台北市民の死傷者は、当日死亡した者が3,000余、それまでのアメリカ軍の空襲における全台湾での死者に匹敵するものであった。この他数万の負傷者と多くの建造物への被害があった。
アメリカ軍による台北空襲で最も被害が大きかったのが1945年5月31日の空襲である。フィリピンスービック湾に駐留するアメリカ第5航空隊は、四航空大隊の合計117機のB-24を派遣しこの任務に当たらせた。駐菲アメリカ空軍は3機のB-24を一編隊とし、5月31日の午前10時より午後1時まで台北を目標とした空襲を加えた。
1944年10月10日より始まった台湾沖航空戦の結果、当初台湾に230機あった戦闘機はほぼ壊滅状態であり、地上に残された対空砲火施設のあった台北城内(現在の台北市忠孝西路、中華路、愛国西路、中山南路に囲繞された地域)、城外の台湾歩兵第一連隊、野砲兵第48連隊(現在の中正紀念堂)などの軍事施設を初め、台湾総督府を含む、栄町、京町、文武町、書院町、明石町、旭町などの主要官庁などが3,800発の強力な爆弾の被害を受けた。
この空襲において最も大きな物的被害を受けたのは台湾総督府である。総督府は空襲を避けるために偽装が施されていたが、正面に命中弾を受け建造物は傾斜、及び火災に見舞われ使用不可能となった。このほか総務長官官邸、鉄道ホテル、総督府図書館、台湾電力株式会社、台湾軍司令部、台北帝国大学付属病院、台北駅、高等法院、度量衡所などの官庁が程度の差こそあれ被害を受けている。
台北大空襲市内着弾略図
中国語版より
台北大空襲はアメリカ軍は台北城内の軍事・経済活動の拠点を主要目標としたとしているが、少なからずの一般市民の住宅への被害も認められる。当時市民の防空施設であった台北市双連地区の静修女学校(現在の私立天主教静修女子中学校)に付属するキリスト教教会のほか、龍山寺の正殿及び左廊も爆撃され、塑像の「釋迦出山」も戦災に巻き込まれている。
台北大空襲での台北市民の死傷者は、当日死亡した者が3,000余、それまでのアメリカ軍の空襲における全台湾での死者に匹敵するものであった。この他数万の負傷者と多くの建造物への被害があった。
日本本土空襲で100を越える都市を米軍が無差別殺戮をして 50万人を越える死者を出したわけですが 台湾も同じ時期に都市を無差別爆撃の被害を受けているわけです。
日本の場合は焼夷弾でしたが台湾の場合は建物の質が違いますので爆弾であったこともあって 被害の大きかった台北でも比較的木造住宅が残ったようです。焼夷弾ってのは施設破壊というのではなく 標的は人、その目的そのものも残虐で 先の大戦は半世紀前とはいっても非難されるべきことではないかと。台湾には焼夷弾は使わなかったようだが爆弾はWikipediaにあるように投下され多くの人命が失われたのだ。
米軍に押され日本の防衛ラインが狭まる中 日本軍は沖縄より台湾を拠点に迎え撃つつもりであったようだが 米国は台湾の日本軍の軍事力を台湾沖航空戦などで完全に制空権を奪ったが 台湾に上陸して島内での戦闘になればかなりの労力が必要とみて 台湾を素通りして沖縄戦に総力を注いだので 日本の都市に対する無差別殺戮まではいかなかったが 台北大空襲が終戦の年の5月31日であるから 終戦近くまで爆撃は行われた。
この台北大空襲の三千人を越えるという死者は 広島、長崎、東京、大阪、名古屋、福岡など 原爆や都市そのものが大都市であった被害地に続く人数であり その大きさがわかります。
あと日本のWikipediaにはないのですが 台北第二高等女学校はこの空襲で廃校となったこともあり 戦後学校として存続しなかった理由が今回記事にして初めてわかりました。

総督府のような建物は修復されて残ったわけですが 写真の台湾鉄道ホテルなどはこのときに消失したとのこと 今の駅前の三越の場所にあったそうです。
しかしながら米軍は非道でありますのー
以上
2011/2/24(木) 投稿

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