「裏切り」と「間違い」
「地獄は一定すみかぞかし」(『歎異抄』
「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(新約聖書 「マタイによる福音書 9章13節)
聖書との出会いは中学時代無償配布で配られた聖書を姉が持って帰ってからで結構ながい付き合いで 文字情報としての宗教としては 仏教よりはやかった。
キリスト教信者が近い身内におらず よみ方なる指南役がないためいっこうに理解できず 自己流として歎異抄など平行して読み おぼろげながらその姿を描いている。
イエスのクライマックスは ユダを筆頭に全ての身近な弟子に裏切られ 磔されてから漸く 救いの意味に弟子たちが気がつくわけなのだからそれは強烈である。この印象がキリスト教の信仰が2000年色あせさせないのだろう。
聖書におけるユダの取り扱いや 宗教画にみられるユダの描かれ方に キリストの求めた許しの本質を
厳密さという旧約の世界から抜け出せない 堅苦しさを感じる。
ユダは裏切りながら最終的には首をくくるわけですが キリストが最初に許したのがユダであるべきで 永遠の裏切りの代表になっているのが日本人的には不満がある。親鸞であれば答えははやく 裏切りという 「あやまち」でなくユダは誰でも犯す「間違い」をしたとなる。
遠藤周作的な解釈となるのはやはり日本人であることのほうが先に立つからなのだろう。
以上
2006/8/6(日) 投稿