
新嘗祭の祭日の三連休 仕事の都合もあって博多の実家にいた。
テレビで北の湖理事長が亡くなられたニュースが居間のテレビで流れていると 母が「あなた好きだったよね北の湖」と なま返事で応えても母の多弁は続く再び「好きだったよね北の湖」と同じ話に戻ったところで私が母にその理由を説明した。
私が好きだった力士は魁傑で 魁傑との優勝決定戦で頂点だった敵役の北の湖も徐々にその取り口から長く贔屓力士に 「魁傑と北の湖は八百長やらんかったからね 全くなかったのがこの二人やけん」とこたえると母は「そうね」と
八百長と一括りで語らないが 人の情からくる星を譲るような手を抜いた取り組みはないだけでなく 星を譲られるような取り組みを相手に許さず 怪しい相撲がとにかく生涯なかった。貴ノ花は星を譲るような相撲はなかったけれど 譲られる相撲があり残念という評価になり いまでもそんな一番は数えてもきりがないほどあり 花相撲じゃあるまいしと贔屓にかなう力士は少ない。
北の湖が理事長を辞任し それに続いた武蔵川も辞任を引き継いだ魁傑の放駒が北の湖に理事長を戻すような形になったのもこの同年代の親方衆で現役時代全く汚れていなかった二人だったからあった話と考えている。
寺尾の錣山親方が理事長の訃報に「全部の責任を取る、男の中の男のような横綱で理事長だった。遺志を継ぐ理事長が出ることを望む」と 寺尾も所謂ガチンコ力士がゆえに出る言葉なのだろう。角界を離れて同じ花のニ八の二代目若乃花の言葉がマスコミに出なかったのが残念だったが 同じ角界を離れた輪島が出したコメントが意外で『輪島氏は引退後、日本相撲協会を退職した。その後はあまり付き合いがなかったというが「偶然、ホテルのサウナで会い、『裸の付き合いだね』と笑った。その後食事に行き、酒は強かった」と懐かしむ。その縁もあり理事長からは毎場所、番付表が送られてきた。「昔のライバルが相撲界で頑張り続けていることが、とてもうれしかった。もらった番付表は全て取ってある」。そして「俺はもう少し頑張る。(理事長には)よく頑張ったね、お疲れさまと言いたい」と弔いの言葉を贈った。』とあった。
輪島さんは力士から親方時代 タニマチや後援会などの贔屓筋にそれこそ毎場所何万枚も番付表を送った側のひとであったので番付表そのものがそれほど大切に取ってあるようなものではないのだろうけれど 角界を追われた輪島さんには 北の湖から送られた番付表を全て取ってあるという心遣いへの感謝のあらわれなのだろう 北の湖の人格がにじみ出たエピソードだと感じる。
日本人が優勝しなくなって10年経つという何故か 日本人が弱くなった、ハングリー精神に欠けるとよく言われるが 朝青龍や白鵬が何故勝負に実績を残せたか 答えは一つ 横綱になっても一番の武器は 立ち合いの『張り差し』、一昔前なら 小兵の板井や旭道山がやって許される技で 横綱はもとより大関のするものではなく 横綱や大関の器でその地位を目指す力士もそれはしなかったし 逆に横綱や大関に『張り差し』をするのも失礼な行為 横綱になった力士で『張り差し』が印象に残る三重ノ海のような例外はそもそも三重ノ海は一番に勝負強く横綱になってしまった三役格
小錦、曙、武蔵丸に対抗すべき対策の一面のあった「立ち合いの正常化」に理由を付けた 立ち合いの手つきの厳格化 小錦、曙、武蔵丸は横綱、大関相撲で『張り差し』は
なかったが 真面目に両手付きで頭から突っ込んで来る相手に『張り差し』はあまりにも有効 小兵だった朝青龍はそれを武器に横綱まで駆け上り 引退まで横綱相撲を取ることはなく 白鵬は大型で横綱たる器としての相撲の教えなく張り差し横綱はそれは無敵で優勝を重ねている。モンゴル勢と一つにしないが 朝青龍や白鵬の二横綱は 相撲の伝統に縛られることもなく日本人力士とは別のルール、土俵で戦っているのだから 持っている強さ以上に白星があがっているということになる。朝潮の高砂や誰が師匠だかわからない部屋で育ったこの二人に 立ち合いの『張り差し』の汚さを学べなかったことが 白星のうえには幸いという皮肉。白鵬の猫だましは張り差しの延長線上にある。ルール通りに行っている朝青龍や白鵬と言うこともでき そして人柄も嫌いではない。
体重を乗せる立ち合いの両手付の徹底か 中腰の立ち合いに戻すかはっきり決めないと 伝統を重んじて相撲道を目指す日本人力士はしばらく勝てないだろう。
朝青龍や白鵬が強いということは間違いはないが 『張り差し』なければ北の湖の優勝回数を越えることはなかった。朝青龍で優勝10~12、白鵬で15~16回ぐらいの横綱だろう。
以上
2015/11/26(木)投稿