
大御心 2001/ 8/28
否定も肯定もしない ただひたすら 耳を傾け 天皇は否定も肯定もなされない 能動的に動かれることは一つ ものごとに心を寄せ和歌を詠まれること。
天皇は和歌を一生に詠まれ続けられる。その歌心は大御心とよばれる天皇の気持ちのありかたにある。
ルース・べネクト著作の「菊と刀」では 日本を「恥の文化」と西洋を「罪の文化」としている。 恥の概念がどのように 日本人のものの見方、とらえ方のひとつの物差しとしてあるのか、この概念は 誠実、そして至誠、その誠に至る過程のありかたに強く作用し 穢れをきらうのである。
ひたすら鏡のように物事の本質を映し出す感性の透明感をもって心を寄せ詠まれる和歌には 純度高き心であり 大御心と臣民は感じる。
天皇の持つ大御心と呼ばれるものと同じく 我々日本人にも大和心が宿る。その透明感、清涼感を妨げる存在としての漢意がある。
そして現代 その漢意は恥を知らぬ唯物史観を代表とするイデオロギーとしてあらわれ 物と物との間に横たわり 価格表示という位置づけを常にわれわれに迫る。合理的なものの割付は 整合性の取れぬ心を生むのだ。
大御心という言葉を知ったのは大学2年だったか 栃木である陸上競技の全国大会があり遠征 その旅の途中初めての東京に 夜行で朝方到着。まずは皇居へ そして靖国神社 明治神宮とまわる。写真を見ると同じ部の連中数人付き合ってくれていた。花の東京で行く場所 こんなところしか思いつかないとは 今思えば本人それほど右よりでなかったのに不思議だ。但し友人曰く「右翼に付き合わされた」といまだに言うことを見れば そうだったかなー。
明治神宮の社務所の売店で自分にお土産ということで購入したのが 明治天皇と昭憲皇太后の御製御歌数首と教育勅語を載せているだけの本 タイトルが「大御心」
御製が大御心の発露であると言うことを知ったのはいつの日か既に定かではなくなっているが この本のおかげであることは確かだ。
中国人A君と今日も新年の挨拶回りということで同行 移動時間に話が弾む。景気は気持ちの問題と言うことで極論として私が「不景気払拭を願って皆が 拝拝すれば景気がよくなるよ」と言うと 彼は「確かに景気は心理的な要素ですが 宗教はねー」と話は脱線 彼の家には一切の宗教色がなく無神論と誇らしげに語る。
私「確かに君たち北京原人という野蛮人は無宗教かも知れないが 発展段階的に言うと無宗教と言うのは原始人以下ってことで 進歩的などと勘違いをしているようだな 進歩と言うよりは 無宗教と言うカルトに取り付かれた退化だろう。」
極端な話で毎度のごとくA君とはこの調子でやっているわけだが こんなことを言いつつも 台湾や香港ほど私の生活に宗教的行事は実際のところ入り込んではいないが 無宗教とか無神論とか 葬儀をお別れ会的に済ませてしまう寂しい人生は送りたくはない 神などいないという合理的結論にたかだか100年に満たない人生で結論を出すことに 細かい気づきなどは無視され情緒がなくなる。まあ「世の中で科学で割り切れないこともある」という言葉を簡単に使う占い師の言葉などは論外と切り捨てることにはしているが。
以上
2009/2/7(土) 投稿