映画「コドモのコドモ」は上映禁止! | ひょっこりひょう「たいわん」島/(台湾ブログ)

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映画「コドモのコドモ」は上映禁止!

「コドモのコドモ」ストーリー
春菜はイマドキの小学5年生の女の子。ある日、いじめられっこで幼なじみのヒロユキと興味本位でしたのは“くっつけっこ”という遊び。そして、性教育の授業を受け「私、妊娠したかも!?」と思い始めます。大人たちに知られないままに、どんどん大きくなっていくお腹を抱え、春菜と友人たちは団結し、コドモたちだけで乗り越えることを決意しますが……。

というものです。
「生命の尊さ」というものはある意味反論できそうもない理想であり 所謂左巻きが好んで利用する原理主義的言葉の一つであります。
公式サイトには

コドモの力は素晴らしい! 忘れかけていたものを気付かされました。
――今宿麻美さん(モデル)

生命が胎内に宿り、誕生していく過程を見守りながら、生の根源的な意味を感じとり、豊かな人間関係を育んでいく子どもたちの友情のスバラシサ。その成長ぶりに、爽やかな感動を覚えた。
――漆原智良さん(教育評論家 児童文学作家)

「コドモのコドモ」=「コドモのチカラ」です。私はとても感動しました。どうぞ先入観や道徳という物差しで論じないでください。屈託のない、自由で、素朴な子どもたちの力が、今の日本に何より必要ですから。
――大竹洋子さん(東京国際女性映画際ディレクター)

映画は教科書ではないし、主張を伝えるだけの道具ではない。『コドモのコドモ』を観る前に抵抗を感じるなら、それは大人たちの問題だと思う。この映画には、コドモたちの明るい未来と、明るく感じられない大人たちの反省が描かれている。結局、帰り道にいろいろと考えてしまう。だから、映画はおもしろいのだと思う。
――梶原俊幸さん(映画館「横浜シネマ・ジャック&ベティ」支配人)

小学5年生の子供たちによる、崇拝すべき、しかし衝撃的な反乱だ。子供たちの社会は無限の可能性を持っており、大人たちよりも柔軟な判断力を持っている。大人たちは子供時代を経験しているにもかかわらず、みんな、そのことを忘れてしまっている。
『コドモのコドモ』は、大人たちが忘れてしまった世界を、最初は衝撃を持って明らかにし、ラストは共感へと導くのである。
――キム・ジソクさん(釜山映画祭ディレクター


という いかにもありがちな 「易しい」言葉が寄せられている。
左巻きのすり替え論理全開、くそったれ映画です。現実に起これば 医学的にも精神的にも社会的にも その子にとっても最悪の結末にしかなりえないことを美化するなんてとんでもない話した。「子供の力」とかいいながら 物語の設定にあるように「くっけっこ」という「子供の無知」で端を発した物語なら この映画が「子供の無知」に反応しないとは言い切れないだろう、この映画の伝える理想のみ子供が感じ取るといういい加減な独善がそこにはある。

この映画が伝えたいのは生命の尊厳だろうか 伝えたいものが結果的に生命を軽んずるなら最低だろう。現実に堕胎という行為は世の中で悲しいかなよく行われている悲しい出来事であるが 原理主義的カトリック信者のように 生命の尊厳から 堕胎に反対する人は 理想の為であっても 優しいひととは決してそうではない。ここの事情にそれぞれ個別の適切な対応を見つけ出すことが 真の優しさであるはずだ。

学校に迷い込んだ子犬を 皆で育てようと熱くなったことが 私の子供の頃の経験で数度あった。子犬を縄で縛り 学校の校舎の裏や 秘密基地で給食の残りを与えて数日するとその顛末はいつも同じ ランドセルを揺らしながら駆けて行った秘密で見たものは可哀そうな子犬の亡骸であったり 学校に住み着いた野良の子犬の場合は 子供達の知らないところで先生達が「処分」して終わるのだ。「子犬が連れ去られた!」と先生を恨めしく 悔しがるのも 2、3日であっさり記憶の一つとなる 子供の力とはこのような気まぐれななものである。

この映画は子犬の話ではなく 人の子のはなしである。うまく子供達の力で出産を乗り越え 愛の詰った子供を産み落とすのだ。生命の取り扱いに対する尊厳もない 子犬扱いである。出演させられている子供がかわいそうである。子供の体で妊婦の映像は 幼児ポルノでもある。

「性を通した愛の教育」でもない 愛し合ってその行為をした設定でもなく、
生みの苦しみを軽く扱い「危険且つ不幸な幼年妊娠を防止する教育」でもない
「管理・躾」を受けていない子供が 突然愛に目覚めて 生命の大切さに気が付く この糞食らえの神聖さを 大人たちが感動しなさいという ずいぶん薄っぺら道徳観で 独善。
「生命の尊厳」という絶対的権利意識は この押し付けがましい愛を 我々は義務として受け入れなければならないらしい。

「理想をとなえて 不幸をばら撒く」この映画の制作関係者を心底私は軽蔑する。

以上
2008/9/7(日) 投稿