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台湾文化協会発祥の地 静修女子学院(台湾台北大稲埕)

台湾某日 大同区を歩く、立派な学校、静修女子学院があったので撮影 ちょうど下校の時間 怪しい親父が女子高生にカメラを向ける姿を想像し躊躇するが しょうがない

なんか外人さんばっかり
私立天主教静修女子中学校には日本語のHPがあったので紹介
私立天主教静修女子中学校HP
校名の由来
本校の校名は英語で Blessed Imelda’s school と言います。これを「真福嚴美黛的學校」 と漢訳されます。「真福」とはカトリック教会がすぐれた聖女イメルダ(嚴美黛)に授与した称号です。本校は真福イメルダを記念すべく、彼女が純潔な心をもって、心を静め、身を修めることにより、日々徳に進んだことを女生徒の模範とし、学校の保護者に相応してネ-ミングした次第であります。また、上述の「靜心修身」より「靜修」の二文字を取り、本校の中国語校名に致しました。
Wikipediaによると
1916年4月1日 カトリック・ドミンニック修道院が私立静修高等女学校を設立
1917年 生徒募集を開始
1945年 台北私立静修女子中学と改称
日本統治時代、私立学校で創立され 校長先生は初代、二代目はスペイン人、三代目、四代目は日本人で写真つきで小宮元之助校長、鈴木讓三郎校長と紹介されていた。

昔の校舎と右は「日本文化教室造景」とあり日本文化も教育に取り入れているようだ。

また日本の学校と姉妹校も結んでいるようで
淑德与野高等学校 埼玉県 さいたま市
清林館高等学校 愛知県 津島市
光ヶ丘女子高等学校 愛知県 岡崎市
聖カタリナ大学 愛媛県 松山市
日本との交流も盛んなようで このようなベースが日台にはあるということで このような民間の活動を大切にしてもらいたいものです。中国とか名ばかりの姉妹都市交流を反日国家とする必要はあるのでしょうかね?

ネットで静修女子学院をあたると 卒業生も立派な人がいて
社団法人日本学士協会HP
業 績
蔡 雪泥氏は1935年(昭和10年)台北市で生まれた。台北市立静修女子高校卒業後、1951年(昭和26年)に日本に留学し、東京文化女子学院に四年間在籍し「洋裁」と「家政」を専攻した。その後も約15年間にわたり、職務をやりくりしながら日台間を往復して家政・洋裁の全般について研鑽に勉めた。また事業の発展に備えて経済、経営、法律も学び続け、1991年(平成3年)に沖縄大学を卒業した。沖縄大学在学中、氏は経営者としての多忙な時間にもかかわらず、週2日の講義を休むことなく確実に出席した。飛行機の旅に疲労を覚えることもあったが、若い学生たちとともに学ぶことで人生をリフレッシュすることになった。学問に対する氏の情熱と熱心さは、学生たちに大きな刺激を与えることになった。
蔡氏は長年にわたり台北市中山女子中、実践家専、文化大学等で家政、服装、美容等の分野で教鞭をとってきた。その経験もあって、1978年(昭和53 年)「功文文化事業股■有限公司」を創設した。ところが日本流の公文式教育を台湾の教育事情にマッチさせるには幾多のリフォームを必要とすることがわかってきた。そのために十数年間資金繰りを含めて困難な経営を強いられることになった。幸いにも経営危機を克服して、リフォームは成功し、今日では蔡氏の主導する功文教育を抜きにしては「台湾の教育は語れない」という台湾教育界の評価が定着している。「功文文化事業股■有限公司」は毎年多くの俊才を輩出しており、その累積数は50万人を超えている。功文出身の俊才たちは台湾の教育に刺激を与え、教育のレベルアップにつながっている。また功文出身者の大方が多方面で指導的地位を占めるようになり、社会発展に尽くすようになっている。以上のような経過と成果に対し、台湾政府の内政部から十回もの「績優全国性人民團體奬」の表彰を受けている。
蔡氏は社会福祉や公益にも強い関心を持ち、事業で得た余力の多くをその分野に注ぎ込んでいる。そのために財團法人台北市蔡雪泥公益慈善基金會及び財團法人功文文教基金會を設立し、優秀な学生のみでなく、貧困家庭の子弟、障害児等にも奨学金を提供している。さらに長年にわたり、氏は社会的弱者を気遣い、多くの援助を与えてきた。また各地の要望に応え、救急車及びリハビリバスの寄贈も続けている。寄贈された車両は「雪泥号」と呼ばれており、台湾本島、澎湖、馬祖その他の離島をくまなく走っており、その姿は台湾全土で馴染み深いものとなっている。・・・・・・(略)・・・・
また福祉活動の一環として2001年10月、沖縄赤十字社に高額の救急車を寄贈した。日本赤十字社名誉副総裁の寛人親王妃殿下は日本赤十字社金色有功勲章を氏に授けて仁道および博愛の精神を表彰した。
氏は現在、沖縄県第一号終身ウチナー民間大使及び中琉文化経済協会理事長の要職にあり、沖縄の政界、財界、そして民間の中琉交流のために年間を通して活躍していることは中琉間によく知られている。
ということで本題 静修女子学院は台湾文化協会発祥の地であるのです。
台湾文化協会Wikipedia
1921年10月17日、台北大稲?結の静修女子学院(現在の静修女中)にて医師や地主、公学校卒業者や海外留学経験者を中心に千名を超す出席者による設立大会が主催された。設立初期の主要人物としては林献堂、王敏川、林呈禄、蔡恵如、李応章、林幼春、蒋渭水、蔡培火、連温卿等がいる
『台湾民報』を協会の宣伝工具とし、台北市、新竹市、台中市、員林鎮、台南市等に十数社の活動拠点を設立した。同時に各地で講演会や講習会を行い、『台湾通史』の著者である連雅堂による台湾史と漢文講座、哲学博士の林茂生による西洋史講座や、医師の蒋渭水による公衆衛生講座を初め弁護士や学者による法律講座や経済学講座が行なわれた。統計によれば1925年、1926年の 2年間の講座受講者は23万人を数えた。
文化協会は当初文化義塾の設立を目指し貧窮家庭の児童就学支援を目的に団体設立が申請されたが、申請時に却下されている。しかし1924年からは夏休み期間を利用した「夏季学校」の活動を開始し、協会総理の林献堂が自宅を提供し大衆教育に力を注いでいた、また当時文協的に専務理事であった蔡培火は大衆教育における映画の重要性に着目し、1925年には東京より社会教育映画十数本を購入し、社会教育に供している。・・・・・・
台湾文化協会は台湾の歴史に必ず出てくる組織なので紹介いたしました。
学校の近くに教会があったのでついでに撮影、ここ大同区、その昔「大稲?結」(だいとうてい)と呼ばれた台北市の中で古くから発展した地区を歩くといろいろ出てきて面白いのです。
以上
2010/11/2(火) 投稿