☆大和心の周りに漂う「清き直き心」2001/ 8/23 21:00メッセージ: 42
大和心の持つひととのイメージとしてこれを別の言葉であえて置き換えるなら「清き直き心」または「明き直き心」というものになるだろうか。
清き直き心は穢れることをとにかく嫌う性質もあり「恥じを嫌う」ということにもなる。物理的事象的な清涼感も伴うが。武士の腹切りは 単純な恥かきでもその動機にもなりうる 清き直き心は汚れたと人に思われる感覚もそのなかにある。
「清き直き心」は「滅私奉公」という二宮尊徳の勤労精神にもなり また「特攻精神」にもつながる犠牲的精神としてもあらわれる。また天皇家の無私の伝統「わたくし心ない」のもこの清き直きこころからであるが、清涼感を伴いながら「大和心」は別のところにある。
日本のキリスト教文学作家の遠藤周作は 日本的信仰と本来のキリスト教とのギャップに苦しみながら 最終的に「深い河」は輪廻転生に行きつき「あいまいな日本精神」に苦しみながら深い河に流れにはまる。仏教哲学者の鈴木大拙は その思想の根幹「日本的霊性」を理論的に説明できなかった。そしてイデオロギーの徒 大江健三郎は「あいまいな日本」と日本を否定するあまり 日本語の遣い手である前提さえ壊し這いずり回る。
なにか この国土に漂うものが 日本人の思考に影響を与えていることは全てのひとが感じている。それが 温帯モンスーン気候が 汚れた塵を洗い流し、木々をすぐに再生してしまう風土がもたらした 「清き直き心」の根が確かにあり 輸入されたイデオロギーでは表現も説明できぬものであろう。
明治天皇の御製「目の見えぬ神に向ひて耻ざるは 人のこころのまことなりけり」というものがあるが
この漂うものは言葉で説明しようはないが 大和の地には確かに目に見えぬものが漂っている。
和歌を日本人が詠むのは ものごとに心を寄せながら調和の取れた身の置き場にいることなのだろう。これが大和心による気づきなのかもしれない。
以上
2005/6/11(土)投稿
Yahooブログ開設日: 2005/6/2(木)で 2005/6/11(土)に投稿した最初の記事です。そしてこの記事は2001/ 8/23 21:00にYahoo掲示板の軍事トピックス「大和心」の42番目に最初に投稿したもの 自分としてはインターネットに文章を投稿したもので確認できる一番古い文章です。Yahoo掲示板大和心は「大御心と大和心、大和言葉」という生涯のテーマを与えてくれそしてよい出会いを与えてくれるものでした。「大御心と大和心、大和言葉」は「台湾」という考察対象との出会いに繋がり 私そのものになっています。