鈴木商店 | 今こそ日本を学ぼう

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私の勉強ノート(日本について、趣味の神社巡り、韓国語、本の紹介など…)

 

 

どうも、のあれ です。

 

今日は、戦前の財閥であった鈴木商店について、

そして丁稚奉公から身を起こし、「大番頭」として鈴木商店を

絶頂期は三井財閥、住友財閥、三菱財閥をしのぐ規模に育てあげた

金子直吉についてご紹介したいと思いますニコ

 

 

 

下差し鈴木商店本社屋 旧ミカドホテル(画像は1918年以前)

画像引用(Wikipedia

 

 

明治初期の鈴木商店は小規模な砂糖の貿易業者でした。

 

 

しかし、

明治19(1886)年に金子直吉が雇われてから状況は変わります目

 

画像引用(Wikipedia

 

 

金子氏は商才を発揮し、

明治32(1899)年、当時の台湾総督後藤新平と交渉し、

台湾樟脳油の販売権のうち65%を獲得。

 

欧米にも輸出し大きな利益を上げました。

 

 

そして第一次世界大戦が始まると鉄などの買い付けに着手。

 

戦争の影響で鉄の価格は瞬く間に暴騰し、絶頂期の鈴木商店は

当時の日本のGNPの一割に相当する16億円もの

売上げを誇るようになったそうですガーンハッ

 

 

これは三菱や三井を遥かに上回る金額でした目

 

 

ところが、


第一次世界大戦末期の日本では、こうした戦争特需で財を成した

資本家への反感や米価の高騰に対する不満が爆発し


商社や米商店への焼き討ちが全国で多発ゲッソリ

 

 

これにより大正7(1918)年8月12日、

鈴木商店の本店も焼かれてしまいましたアセアセ

 

 

下差し焼かれてしまった鈴木商店本店

画像引用(Wikipedia)

 

 

これは完全にとばっちりを受けたものでした真顔

 

 

米価の高騰の原因は、商社が米を過剰に輸出していたことだったのですが

金子氏は逆に海外産の米を輸入して、米不足を解消しようとしていたそうです。

 

 

また、第一次世界大戦末期は世界的に鉄が不足し、

欧米が鉄の輸出をストップしたため、日本の重工業は危機に直面していました。

 

これを救うために奔走し、

アメリカから鉄を輸入する契約を成立させたのも彼だったそうです目

 

 

その生活は極めて質素で、

借家に住み、居間には世界地図が一枚貼ってあるだけだったとかうーん

 

 

その後、

鈴木商店が経営難に陥ったとき彼は名言を残しています。

 

役員の間から赤字の工場を閉鎖すべきだと言う声が上がったそうですが

工場を閉鎖した場合、社員を大量解雇しなければならなかったため

 

鈴木氏は「社員は家族である!!」と工場閉鎖に反対したそうです。

 


かっこよすぎるラブキラキラキラキラ


名言ですよねキラキラ

 

 

そういうことが言える役員がいる会社は最高だと思いますよホント真顔

 

 

 

しかし残念ながら

昭和2(1927)年に資金調達が不能となり鈴木商店は

事業停止・清算に追い込まれ、いまでは登記上のみ存在するそうです。

 

 

鈴木商店の流れを汲む会社は今も多く存在するそうですがね!


 

鈴木商店に関しては、鈴木商店記念館というホームページがありますので

詳しくは是非こちらをご参照くださいましぶちゅー

下差し

 

 

 

鈴木商店について私は本を通して知りましたが、

まだまだ歴史の表舞台には登場しないお話が沢山あるんだなと思うと

もっといろいろ知りたくなりましたニコ

 

ここまで読んでいただきありがとうございましたドキドキ

 

のあれ猫

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