「江戸芸人の予言 オランダは変わらなかった
[2000年01月29日]
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江戸時代末に欧米を巡業して歩いた高野廣八の曲芸師一座の話を以前、この欄で紹介した。
屈託などどこかに置き忘れたような廣八は興行が終わると、「女郎買いに参り候」。米国ではホワイトハウスに招かれ、時のA・ジョンソン大統領と握手もするが、その晩にはもう娼館に駆け込んでその様子がどうの、大統領接見の三倍ぐらいの分量を日記に書きつづっている。
欧州に渡っても同じで、ロンドンでもリヨンでもハネたあとの郭通いは欠かさなかった。
しかし、ただ一国、例外があった。オランダである。理由は書いていないけれど、この国の印象を彼はこう書く。「家作わるく、人わるし。国も同じく悪しく…」
ハーグではこの道中でただ一度の喧嘩もし、刀を抜いてオランダ人相手に大立ち回りを演じてもいる。飾り窓をのぞく気分にもならないほど、腹に据えかねる何かがあったことは十分うかがえる。
それが何なのか、ヒントらしいものが、廣八の時代から半世紀後の蘭領東インド(インドネシア)のオランダ人、ビンネルツの日記に書きとめられている。「日本人は背が低く不潔で、曲がり脚の猿のように醜く、動物の檻(おり)に漂う臭気と同じぐらい強烈な鼻をつく体臭がする」
ちなみにオランダ人評論家、R・カウスブルックは「日本人は毎日風呂に入り、臭いもない。むしろオランダ人の方が不潔で体臭は強い」(「西欧の植民地喪失と日本」)と訂正し、この発言がオランダ人の有色人種への観念的な蔑視に基づいていると指摘する。
同じ肌色の植民地の人々に対しても、この意識は同じで、スマトラのたばこ農場の様子を記録した「レムレフ報告書」には現地人を米国の黒人奴隷と同じように取り扱い、「鞭打ち、平手打ちは当たり前だった」と記録する。
ある農場では「粗相をした二人の女性を裸にして、オランダ人農場主がベルトで鞭打ち、さらに裂けた傷口や局部に唐辛子粉をすり込んで木の杭に縛り付けて見せしめにした」。
刑務所で過酷な労役を課せられる囚人が、「オランダ人の農場より食べ物がいいから」と出所を拒んだ例も伝えている。有色人種は家畜よりひどい存在だった。
オランダ出身のフランクリン・ルーズベルトもそういう意識が強かった、とニューヨーク州ハイドパークの大統領私邸で会談した英国のロナルド・キャンベル公使は本国あてに書き送っている。
大統領がこのとき打ち明けたのは「劣等アジア人種」を牛や豚のように品種改良しようという計画で、「インド系、あるいはユーラシア系とアジア人種を、さらにはヨーロッパ人とアジア人種を交配させ、それによって立派な文明をこの地に生み出していく。ただ日本人は除外し、もとの島々に隔離して衰えさせる、というのがルーズベルト大統領の考えだった」
米大統領のアジア人蔑視、日本人敵視の気分は、蘭領東インドのオランダ人ともぴたり一致する。一九四一年七月、米大統領は日本人に中国大陸から撤退して「もとの島々」に戻るよう、いわゆるハル・ノートを出し、米国にある日本資産を凍結する。オランダもそっくりならって蘭領東インドの日本人資産を凍結、約六千人の在留邦人を追い出した。
その結果が五カ月後の太平洋戦争になる。そして戦争が終わった後、オランダ人は抑留中に「平手打ち」と「粗食」を食わせた旧日本軍兵士の裁判を行い、連合国の中では最多の二百二十四人を処刑した。なぜ、その程度の罪で極刑を宣告したのかというと、平手打ちも粗食もともにオランダ人が現地の人々に与えたもので、それを日本人から与えられた屈辱の報復といわれる。
またオランダ政府も戦時賠償金を日本政府に要求、日蘭議定書で多額の金銭賠償を取った。
その対日報復のさなかに、現地の人々が独立を求めて立ち上がった。オランダは「戦闘機、戦車など近代兵器と十万の兵士を送り込んで、女性子どもを含め八十万人を殺した」(福田赳夫首相とサンバス将軍の会談)。
四年間の戦争の末、オランダは渋々独立を承認するが、その条件は独立を容認した代償として六十億ドルを支払うこと、オランダ人が所有してきた農場などの土地財産の権利を保全すること、スマトラ油田の開発費を弁済することなどだった。もちろん植民地支配の償いや謝罪は一切なかった。
インドネシア側はこの条件をのんでやっと独立が認められた。
◇
それから五十年たって、オランダ政府は日本軍が戦時中、オランダ人の資産を奪った疑いがあるとして調査を行った。今月十七日に発表された結果はシロだった。でも戦前、日本人資産を凍結の名で取り上げたことは調査の対象から外していた。
抑留者グループたちもまだ屈辱感が晴れないのか、その賠償を求める裁判を起こしている。
また、二十五日付のオランダ紙は五月に訪問を予定される天皇陛下に「謝罪を挨拶に入れるよう政府特使を派遣した」と伝える。
「人わるし、国同じく悪し」と廣八は書いた。昔の人はモノを見る目があった。
http://kaz1910032-hp.hp.infoseek.co.jp/120129.html
」
これ読むと、まだ朝鮮人がマシな善人に見えるのは私だけか?w ^^;
「アメリカ議会の例の公聴会では元慰安婦だとされる3人の女性が証言をしました。このうち日本軍に連行されたと述べた人は一人だけ、オランダ女性(現在はオーストラリア国籍)のオハーンさんという女性でした。オハーンさんはいわゆる「慰安婦」問題や「日本軍の強制徴用」が未解決の案件であるかのように語り続けました。
しかしこの女性は60年前の軍事法廷で同じ証言をして、
日本人11人が死刑をも含む厳罰を受けた「戦争犯罪」裁判の完結に立ち会っていたのです。
しかもその裁判では日本軍の上層部は「慰安婦は自発的にする女性だけにせよ」という命令を出していたことが立証されていたのです。
一つの同じ「犯罪」や「容疑」で同じ当事者を二度も三度も、あるいは永久に裁き、有罪を宣告し続けるというのが、この「慰安婦」問題の本質なのです。
それを裏付けるオランダ女性の実例について書いた産経新聞記事を以下に紹介します。
対日非難は蒸し返し…オランダ女性の事例 末端将兵の行為すでに厳刑
【ワシントン=古森義久】米国議会の一部やニューヨーク・タイムズが「慰安婦」非難で日本軍の強制徴用の最大例として強調するオランダ人女性のケースは実際には日本軍上層部の方針に逆らった末端の将兵が勝手に連行し、その違法行為が発覚してすぐ日本軍自身により停止されていた事実が明らかとなった。しかもこの違法の性的徴用の責任者たちは戦後の軍事裁判で死刑を含む厳刑に処されており、今回の日本非難はすでに責任のとられた案件の蒸し返しとなっている。
8日付のニューヨーク・タイムズは日本の慰安婦問題を安倍晋三首相がそのすべてを否定したかのような表現でまた報じたが、そのなかでオランダ人の元慰安婦だったというジャン・ラフ・オハーンさん(84)の「インドネシアの抑留所にいた1944年、日本軍の将校に連行され、慰安所で性行為を強要された」という証言をとくに強調した。同紙はオハーンさんの2月15日の米下院外交委員会公聴会での証言を引用しており、「日本政府からの公式の謝罪が最重要」と述べたとして、日本軍が組織的に総数20万人もの女性を強制徴用したという糾弾の最大の根拠としている。
ところが慰安婦問題に詳しい日米関係筋などによると、オハーンさんは戦後すぐにオランダ当局がインドネシアで開いた軍法会議で裁いた「スマラン慰安所事件」の有力証人で、その証言などにより、上層部の方針に違反してオランダ女性を連行して、慰安所に入れた日本軍の将校と軍属計11人が48年3月に有罪を宣告され、死刑や懲役20年という厳罰を受けた。オハーンさんは同公聴会で日本側が責任をとることを求めたが、責任者は60年近く前にすでに罰せられたわけだ。
日本政府には批判的な立場から慰安婦問題を研究した吉見義明氏も著書「従軍慰安婦」のなかでオランダ政府の報告書などを根拠にスマラン慰安所事件の詳細を記述している。同記述では、オハーンさんらオランダ女性を連行したのはジャワの日本軍の南方軍幹部候補生隊の一部将校で、(1)軍司令部は慰安所では自由意思の者だけ雇うようはっきり指示していたが、同将校たちはその指示を無視した(2)連行された女性の父のオランダ人が日本軍上層部に強制的な連行と売春の事実を報告したところ、すぐにその訴えが認められ、現地の第16軍司令部はスマラン慰安所を即時、閉鎖させた(3)同慰安所が存在したのは2カ月だった(4)主犯格とされた将校は戦後、日本に帰っていたが、オランダ側の追及を知り、軍法会議の終了前に自殺した-などという点が明記されている。
http://komoriy.iza.ne.jp/blog/entry/131397/
」
これを読むと、オランダ人の思考回路ってチョンとそっくりだな。
民度が低すぎ!w