「激戦となったサイパンでの戦いで、日本軍の軍人・軍属約四万三千人が戦死、在留邦人約一万二千人が犠牲になった。


そのサイパン島で日本人はどのような「地獄」を体験し、目撃したかを、元陸軍大尉、田中徳裕(のりすけ)氏の著書


『我ら降伏せず サイパン玉砕戦の狂気と真実』


(立風書房、昭和五十八年刊)から紹介したい。


本著を読めば、米軍に追い込まれて投身した日本人ばかりではなかったことがよく分かる。現地の日本人が日本軍の駐屯地に行き、次のように語っているのだ。


「兵隊さん、私たちも夜襲に参加させてください。妻子は、あの岩壁から、いま、落ちて死んでいきました。……もう、なにも思い残すことはありません」


「病気で、手足まとい(原文のママ)になる妻子を、いまジャングルの中で殺してきました。兵隊さんたちと一緒に死んでいきます……」


また、従軍看護の使命を果たして十二、三人の女性看護婦が、軍人立ち会いのもとで注射器を使って自決する場面も出てくる。


こうした潔い死の場面とともに、昭和十九年七月九日、田中氏ら生き残った兵隊は山の中腹の洞窟(どうくつ)から眼下の飛行場で繰り広げられた、目を覆わんばかりの惨状も目撃している。


<三方から追い込まれた数百の住民が逃げ込み、捕われの身となった。


幼い子供と老人が一組にされ、滑走路の奥へ追いやられた。


婦女子が全員、素っ裸にされた。そして、無理やりトラックに積み込まれた。(略)


婦女子全員が、トラックの上から「殺して!」「殺して!」と絶叫している>


<婦女子が連れ去られたあと、こんどは滑走路の方から、子供や老人の悲鳴があがった。


ガソリンがまかれ、火がつけられた。飛び出してくる老人子供たち。その悲鳴……。


米軍は虐待しません、命が大切です。


早く出てきなさい……。


あの投降勧告は一体なんだったのか。


常夏の大空をこがさんばかりに燃え上る焔と黒煙。幼い子供が泣き叫び、絶叫する。断末魔があがる>


<残虐な行為は凄絶をきわめた。


火から逃がれ出ようとする子供や老人を、周囲にいる敵兵は、ゲラゲラ笑いながら、また火の中へ突き返す。


かと思えば、死に物狂いで飛び出してくる子供を、再び足で蹴(け)り飛ばしたり、銃で突き飛ばしては火の海へ投げこんでいる。


(略)


無気味に笑う彼らの得意げな顔が、鬼人の形相に見えた>


七月十一日。


<東の空が白むころ、追いまくられた住民がマッピ岬にむかって死の行進をはじめた。数百、いや数千人はいたろうか。もう、だれの制止もきかない。魔術にでもかかったように、怒濤岩をかむマッピ岬に立った。老人が先頭をきった。


「天皇陛下萬歳、皇后陛下萬歳!」


と叫んだかと思うと、海中めがけて飛び込んだ。


我々が潜んでいる洞窟のすぐななめ上である。


投身自決は、次々とおこなわれた。後から後から、子供も、婦人も、押されるようにして飛び込んでいく。


その海中に、群れをなしたサメが泳ぎまわっている。海はたちまちまっ赤に染まり、飛び込んだ人たちは次々と食いちぎられて沈んでいく>


マッピ岬とは、のちに「バンザイクリフ」と呼ぼれるようになるサイパン島の最北端の岬だ。


ほかにも、青竹に串刺しにされて死んでいる婦人の姿など、凄絶な場面が綴(つづ)られている。


ここで忘れてならないのは、このような場面を目撃した日本人の中で一番多かったのが、


ほかならぬ沖縄の人たちであったという点だ。


生き残った彼らが、サイパン島での玉砕の様子をさまざまな形で、故郷の親戚(しんせき)や縁者に


怒りと悲しみをもって伝えたことは間違いない。


米軍上陸の前から、沖縄をはじめ日本人は敵軍の「鬼畜行為」におびえていたのである。




この残虐行為を知っていれば、当時の人が自決を決行した行為を理解できますよね?


もし、軍が「関与」したとしても、軍人を憎む人はいないのではないでしょうか。」
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